第3号 「人間の安全保障」と人の移動 “Human Security” and Movement of People
山本 哲史(東京大学特任准教授)
従来の方法では対応できない脅威に直面する時、社会は新たな方法によって安全を追求しようとします。
このような安全保障化(securitization)の流れの一端として「人間の安全保障」の提起がある、ということを前回書きました。
安全保障化の要因としては、(1)脅威の変化のほかに、(2)安全に対する意識の変化もあります。
前者は脅威の物理的ないし客観的拡大と言えるでしょう。
伝統的な意味での国家による安全保障は、基本的には軍事力を用いて国民の安全を確保しようというものです。
しかし脅威は仮想敵国のみではなく、軍事力で防ぐことのできるものばかりとも限りません。
たとえば地球温暖化や砂漠化、あるいは国境などを軽々と越えてくる感染症、また、食糧不足や石油などを含めた資源の枯渇、人口爆発や逆に農村部の限界集落 化など、科学技術の急速な発展や開発政策の負の側面とも関連しつつ、従来の枠組では対応の難しい課題(その多くは、いわゆるグローバルイシュー)が噴出し ているのが現代です。 これに対し、後者は国際社会をリードする国連などの国際組織の取り組みや、研究者たちによる議論などを通じて思想的に導かれるものであり、安全保障の主観的拡大ないし深化ということが言えるでしょう。
実体的な脅威の変化とは別に、人々の意識の変化を通じても安全保障の裾野は広がっていくのです。
しかしこれは論争的なものになりがちです。
というのも、立場や考え方によっては安全保障であったりなかったりすることが扱われるからです。
たとえば前回ご紹介した「人間の安全保障委員会」による2003年の『Human Security Now』報告書などは、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現」することに注目し、恐怖からの自由 (freedomfrom fear)のみならず欠乏からの自由(freedom from want)も含めて「人間の安全保障」を構想しています。
これには、命の物理的意味での保護のみならず、生活の最低限の内容的充実の確保も含めて安全保障の課題とすべしとする思想が根底に流れています。
他方、たとえば移民受け入れによって社会構成に変化がもたらされることを懸念する「社会の安全保障(societal security)」という考え方もまた、安全保障に対する意識の変化の中から導かれています。
このように新たに提起される考え方は、時に相互矛盾に陥ることがあります。
その典型例として、「社会の安全保障」と「人間の安全保障」は、「人の移動」という現象をめぐって鋭く対立する側面を持っています。
一般的に「社会の安全保障」は、移民受入国にお山本 哲史東京大学特任准教授いて、移民の急増による社会構造の変化や治安の乱れを懸念する立場から主張されます。
これに対し、「人間の安全保障」は少数者(minorities)や各種の社会的困難に直面する人々の立場から主張されます。
一部の移民もまた、様々な要因から弱者(vulnerablepeople)として注目され、「人間の安全保障」の主体として意識されるわけですが、受入 国の「社会の安全保障」のために移民を追い出せば、今度は移民の「人間の安全保障」が危うくなるという具合に、両者はトレードオフの関係にあるようにも思 えます。
日本の難民受け入れを例に考えてみましょう。
他の多くの国と同様に、日本も「1951年の難民の地位に関する条約」に加入しており、保護を求める避難者が真に難民であるかを判断するための、いわゆる難民認定審査を30 年来実施しています。
法務省によるその審査は厳しく、場合によっては不当に閉鎖的であるとも批判されてきました。
2011 年度の難民認定申請件数は1,867件、持ち越し分も含めて審査件数が2,119件ですが、そのうち難民だと認定された数はわずか21 件にとどまります。
もっとも、認定数が少ないこと自体は問題ではありません。
また、難民認定制度が不法滞在者に悪用されては困るという意識、すなわち入国管理の適正化の要請は、「社会の安全保障」を持ち出すまでもなく当然のものと言えましょう。
他方、「人間の安全保障」の観点からは誰に何をどう保障すべきか。
理屈はともかく、避難者の生命や尊厳の確保は可能か。
場合によっては受入国の「社会の安全保障」が避難者の「人間の安全保障」を犠牲にしてよいものかどうか。
こうした点は難民のみならず、人身取引の被害者や、本国での貧しい暮らしを逃れて他国で生活の術を得ようとする移住労働者など、理由はさまざまあれ結果的に生命や尊厳の危うい状況に置かれている全ての人々への対応にも共通する課題となっています。
もちろん、人は基本的には自らの選択と責任において安全を確保すべきでしょうし、国はなによりまず国民を守るべきかもしれません。
しかし他方では、弱者を切り捨てるだけの社会は続かないことを、人類は歴史を通じて学んできたのです。
今日の弱者保護は明日の我が身を救うであろうし、そこでは国民や外国人であることは決定的な要素にはなり得ない、そうした互助的思想が「人間の安全保障」の根底にはあるのです。
ある社会の本質がどういうものなのかは、弱者への対応を見ればその大方が見えるものです。
伊藤塾塾便り201号/HUMAN SECURITYニュース(第3号 2012年5月発行)より掲載