第7号 難民認定に関する立証責任 Burden of Proof on Refugee Status Determination

山本 哲史(東京大学特任准教授)

みなさんは、各種資格試験への対策の中で、裁判における立証責任についても詳しく勉強なさっていることと思います。
立証責任とは、ある主張に関する立証が成功しなかった場合において法的不利益(または利益の不発生)を被る者を選定する概念です。
一般的には刑事訴訟においては検察側が負い、民事訴訟においては自己に利益をもたらす主張を行う者が負うことになっています。その根拠をめぐっては、学説が様々に展開されているようです。

 難民認定は行政処分ですが、受益処分として捉えられていることから難民認定申請者にその立証責任が設定されています。認定されると各種法的利益を得るのは難民ですので、立証責任は当然に難民にある、というわけです。

 実態として、たしかに難民認定は難民認定申請者に大きな利益をもたらします。
その最たるものは、不法滞在の場合に退去強制を免れることができる、というものでしょう。
それどころか、基本的には定住者としての在留資格を得ることが可能となりますので、就業上の制約も取り除かれます。
日本でとにかくお金を稼ぎたい、そして本国の家族や親戚に送金し豊かに暮らしたい、と考える人にとってみれば、またとない選択肢であることは間違いないでしょう。
実際、私の知人によると、知り合いのある国籍の外国人たちは、とにかく難民認定申請をするのだ、といいます。
難民認定申請をすればなんとかなる。認定されなくとも、審査期間中、なんとか働くことができる。帰国を先延ばしにし、滞在を引き延ばすことができる、というわけです。

 さて、難民認定は受益処分であるので立証責任は申請者側にある、ということについては、このように少なくとも実態としてもうなずける面があります。
逆に、仮に難民認定審査を担当する法務大臣側に立証責任を設定するとすれば、法務大臣は不認定のための材料を探すことに躍起にならざるを得ないでしょう。
つまり、不認定であると立証されない限りは認定となるということになれば、ほとんどの人が認定されることになるからです。
この意味で、立証責任の転換を主張する議論には、あまり現実味がないように思います。
また、立証責任の軽減や分担についても論じられていますが、法的には上記の通り立証責任はいずれかの当事者に排他的にかかってくるものであるので、それを分けたり軽くしたりできるはずがありません。

 それにしても難民認定申請者はそもそも本国から逃れてきているわけですから、証拠となるような書類や証言を集めることは容易ではありません。
このため、事実認定の基準(いわゆる証明度)を緩めるべきとの主張があります。
このような主張については、気持ちは分かるのですが、すこし落ち着いて問題を整理してから考える必要があるように思います。
まず、事実認定の認定基準を緩和するというのはどういうことでしょうか。極論をいえば、はっきりしない場合にも認定すべしということなのでしょうか。
そもそも「基準」という言い方に私は疑問を持つのですが、皆さんはいかがでしょう。
たとえば裁判官の自由心証主義が謳われる民事訴訟の場合、そして抗告訴訟の場合においても、「自由」なわけですから、「基準」云々ということ自体に疑問を感じてしまうのです。
あるいはこれは、認定基準の話ではなく認定方法の話であって、もっと言えば間接事実から推定事実を認定する場合の、推定の方法をめぐる基本的な考え方のことではなかろうかと思うのです。

 難民認定審査は「迫害の十分に理由のある怖れ」を有していることを申請者に求めるのですが、「怖れ」という事実の証明は、なかなか難しいものです。
少なくとも直接事実として認定できるものではなく、何らかの間接事実からの推定を働かせて導くべき事実です。
この点、各国は「十分に理由のある」という箇所の法解釈を通じて、その「怖れ」の客観的側面を強調しながら、何らかの事実の立証を前提とする「怖れ」の推定を求める傾向にあります。
このような危険の推定方法は「真の危険性 (real chance)」推定と呼ばれています。
漠然とした危険の可能性であれば、人は生きていれば必ず死や病気や事故などに直面しているものですから、危険性は常にゼロではないけれども、そうした危険 性と区別されるものとして、合理的な因果関係が説明可能な危険として推定でき、また、そうした推定の基礎となるものとして、少なくとも何らかの客観的事実 が必要であるとする考え方が「真の危険性」なのです。
つまり証明基準ではなく、事実の推定方法(または方針)が法解釈論から導かれています。


 
伊藤塾塾便り205号/HUMAN SECURITYニュース(第7号 2012年9月発行)より掲載