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第25号 「難民認定制度に関する専門部会」をご存知ですか ?(2)-日本と難民の関わりの見直しが始まっています-

山本哲史 東京大学 東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長 大学院総合文化研究科 特任准教授

前回のコラム(「難民認定制度に関する専門部会」をご存知ですか?(1)、2014 年2月発行)において、難民行政を所管する法務大臣の私的懇談会「出入国管理政策懇談会」のなかに「難民認定制度に関する専門部会」を設置する形で、日本 の難民行政の見直しが昨年 11 月に始まっていることをご紹介しました。
個別の難民認定申請については、高度に法技術化された、事実認定と難民定義の法解釈をめぐる闘いが各国において繰り広げられているなか、日本の極端に低い難民認定率(1% を下回る)が問題になっています。
この、極端に低い難民認定率をどう捉えるべきでしょうか。日本における難民認定が不当に厳しすぎる、という見方もあるでしょう。
 また、難民該当性のない人が、難民認定申請制度を濫用している、と考える人もいるでしょう。
あるいは、難民認定審査とは、そもそも厳格なもので、然るべき結果が出ているに過ぎない、という意見の人もいるでしょう。
さらに言えば、難民が少ない(難民として保護されるべきであると認定される人が少ない)ということは、困っている人が少ないということなのだから、いいことではないか、という人もいるかもしれません。
この最後の点については、実は問題視されています。
難民認定申請の結果、難民としては認定されなかったものの、他の理由で保護される人たちがおり、その人たちの方が数が多いという状況なのです。
難民認定申請のうち、日本政府が 2012 年の 1 年間に難民認定したのはわずか 18 名ですが、他方、人道上の配慮を理由として 112 名に在留を認めています(在留特別許可など)。
日本に限らず各国における入国管理は、外国人の滞在を一般的に禁止したうえで、その中から滞在資格を認めた外国人に対してのみ滞在を許可し、その他は不法滞在者とする形をとっています。
そして在留特別許可とは、この不法滞在者の一部にいわゆる「アムネスティ(赦し)」として与えられるものです。
 
 法務省が毎年の難民保護の成果として発表している「庇護数」は、難民と認定した者、および在留特別許可などその他の庇護を受けた者を合算した人数です。
難民と認定された外国人(条約難民)と、在留特別許可を受けた外国人とでは、日本に在留できるという点では同じですが、その待遇が異なることが問題視されているのです。
もちろん、危険が待つとされる本国に送還されないだけでも有り難い措置と言えるのかもしれません。
しかし在留特別許可を受けた外国人からすれば、自分は条約難民としての各種法的権利を約束されているはずなのにおかしいではないか、というわけです。
特に、難民保護の中核とされるノン・ルフルマンの義務(生命または自由が脅威にさらされるおそれのある場所への難民の追放・送還禁止)は、条約難民には明 示的に適用がある(入管法 53 条 3 項の 1)のに対し、在留特別許可はあくまで法務大臣の裁量によるため(入管法 62 条2の2第2項)、この安全は保障されてはいないという問題があります。
 
 この問題は結局のところ、難民認定審査が適正に行われさえすれば問題にはならないものということができます。
しかし厄介なことに、難民認定審査は通常の受益行為同様、立証責任を申請者に課しており、その立証基準としても「高度の蓋然性」を求めるという運用になってきました。
後者については、難民であるとの「高度の蓋然性」が判断権者の心のうちに生まれるならば、難民と認定される、というのが本来の意味であると思いますが、運 用上は、難民の定義の中核要素とされる迫害が存在することの「高度の蓋然性」が求められることが少なくありませんでした。
 
 これまで、特に日本国内では、各種の研究に基づいて、「高度の蓋然性」を求めるという立証基準を「下げよ」という主張が繰り返されてきましたが、法務省がこれに応じることはありません。
また、「灰色の利益を申請者に認めよ」という主張も行われてきたのですが、これにも法務省は応じていません。
なぜなら、これらの主張は法的根拠が示されておらず、申請者がかわいそうだという理由だけをもって、行政の中でいたずらに難民認定審査のみを特別扱いすることはできない、というわけです。
筆者はこの法務省の判断はもっともなことだと考えています。
 
 しかし一方で、上記のように迫害が存在することの「高度の蓋然性」ではなく、難民であるとの「高度の蓋然性」が求められている、という点に、研究者を含めて気付いている人が少なかったように思います。
難民の定義は「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を中核要素としているのであって、それは、恐怖という主観要素、つまり極端な話、幻であっても恐怖は存在しうるわけで、その点を見落としてきたのです。
ただし、主観的な恐怖だけで難民認定していたのでは、いくらでも難民は増えるでしょう。
そこで、「十分に理由のある恐怖」となっているわけです。
諸国は、恐怖の存否については本人の話を元に、供述の信憑性を判断することで決したうえで、「十分に理由のある」という部分について、一定の客観要素とし て「同じ状況に置かれたならば、誰しも申請者と同じ恐怖を感じるであろう」という、恐怖の価値判断を行うという実行を積み重ねてきているのです。
恐怖が存在していることを認めた上で、十分に理由のあるという価値判断は、一般的には一定の客観証拠があるや否やによって行われてきました(「真の危険性判定real chance test)」と呼ばれています)。
この、恐怖の価値判定は、そもそも恐怖の存在判定ではないわけですから、一定の証拠どころか一つも証拠がないというような場合には、さらに申請者が信用で きる証人として認められるべきかという、先ほどのものとはまた別の意味での、人物に対する信憑性評価を行い、信憑性ありと判断した場合には、証拠がなくと も「十分に理由のある」恐怖としての価値を認めてきているのです(これらを詳しく論じた拙稿が、国際法学会の『国際法外交雑誌』112 巻 4 号に掲載されています。興味をお持ちの方は図書館等でご覧になってください)。
 
 「難民認定制度に関する専門部会」では、こうした法技術的な問題も含めて、日本における難民保護を広い視野から検討してほしいところです。
どのような結論が出るにせよ、法の理論だけでなく、実践に基づけるか、そしてその場合も、制度運用側の経験だけでなく、難民や難民認定申請者など、保護を受ける当事者たちの目線を欠くことのないよう、バランスのとれた議論ができるかが重要になってくるでしょう。


 
伊藤塾塾便り223号/HUMAN SECURITYニュース(第25号 2014年3月発行)より掲載