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第28号 難民問題への対応と法や制度の客観性

山本哲史 東京大学 東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長 大学院総合文化研究科 特任准教授

前回、EUの庇護政策のもと、ランペドゥーザ島で何が起きているかについてご紹介しました。
ダブリンII規則(難民の取り扱いについて、EU域内で最初に入域した国が庇護審査を担当するという規則)への不満は、ご紹介したランペドゥーザ島を有するイタリアに限らず、ギリシャやスペインなど地中海に面する南欧諸国にも少なくないようです。
昨今のシリア危機に象徴されるように、ヨーロッパ諸国は、その周辺で騒乱が発生すると必ずと言っていいほど大量の難民受入に直面することになります。
これに対してEU内部で受入の負担分配を制度化して対応しようと考えられたのがダブリンII規則ですから、その制度への不満を解消するためには、そもそも難民を発生させない、という努力にも目を向けることは当然といえます。  国際法は、そうした分野(難民流出の阻止ないし抑止)においては、これまで十分な役割を果たしてはきませんでした。
国際法の基本原則が国家間の主権平等にあり、そこから派生する内政不干渉もまた特に尊重されるべき原則ですから、他国の国内のことに積極的に関与するという発想自体、国際法の構造の中には見出せないのです。
ところが、難民流失の結果、それを受け入れる負担に直面する国の側からすれば、そうも言っていられないという状況があるわけです。
少し雑な言い方になりますが、国際法上の義務を発生させることになる難民を自国領域(管轄)から遠ざけておいて、それでも事が収束しない場合に、その根本を絶つため、ようやく国際社会は重い腰を上げる、というような構図なのです。
 EUを例に考えて見ると、この構図は分かりやすいかもしれません。2013年末までに、シリアから他国へ避難した難民の数は総計で300万人を超えてい るとも言われており、その受入に直面しているEUでは、昨年(2013年)9月の時点で総額24億ドルもの支援を行っていると報じられています。
難民の多くを受け入れている周辺国のヨルダンやレバノン、そしてイラクにも、さまざまな形でそうした支援が行われており、欧州委員会はその後も適宜援助政策を展開し、要所要所でまとまった額の支援金拠出の決定を重ねています。
欧州理事会(EU加盟国の首脳などによって構成される会議)は、昨年(2013年)10月の会議でこうした難民問題をとりあげ、各種の対策と併せて、流出国の貧困削減に取り組むことも決定しています。
 
 さて、最近世間を賑わせている言葉の一つに、積極的平和主義、という考え方があります。
この考え方は、ご存知の方も多いように、本来は別の意味で使われてきました。
平和学の泰斗として著名なヨハン・ガルトゥング博士は「消極的平和 “negative peace”」と「積極的平和 “positive peace”」という2つの「平和」を対照的に示しつつ、前者が武力紛争(いわゆる暴力)のない状態を示すに過ぎないのに対して、後者は「構造的暴力 “structural violence”」が解消された状態を指すとして、その追求の重要性を説いたのです。ここで、構造的暴力とは、貧困、抑圧、差別など、社会に潜む様々な 構造的問題を指しており、要するに人々の希望や未来を押し殺すようなあらゆる脅威を意識した概念なのです。
こうした脅威からの解放を目指すことが、ガルトゥングが広めた「積極的平和」論であったわけです。難民流出の原因を根本から絶とうとすることは、ある意味では積極的平和主義の遂行という側面も有しているといえるでしょう。
 
 問題は、こうした難民流出の根源への取組は、得てして「封じ込め “containment”」などと揶揄される結果に陥りがちである、という点にあります。
先進諸国は多くの場合、自国の国境管理の技術にも長けており、正規の出入国を維持することを得意とします。
難民の大半はこうした正規の手続を経ずに他国へ逃れるわけですから、それを入国審査の段階で押し戻すことは先進諸国にとってはそれほど難しいことではありません。
それどころか、公海上に軍艦を派遣してまで不法入国者を取り締まる国もあるわけです。
そうすると、押し戻された難民たちは国境管理の緩やかな、多くの場合いわゆる発展途上国へと行き先を変えざるを得ません。
あるいは、避難したい状況下にありつつも、自国に留まり続けるよりほかに途のない人も多くいるということになってしまうわけです。
そうした場所(国)へ、国際開発援助や緊急人道支援という名目で、上記EUの如くに先進諸国から支援が届きます。
これは果たして、ガルトゥングの言う「積極的平和」の追求と呼べるものでしょうか。
 
 ガルトゥングが問題提起する「構造的暴力」は、このような、まさに表面上や形式的には正義を装いながらも、しかし実体的に、そして全体構図として差別と違和感に満ちた方法をこそ、指し示しているのではないでしょうか。
日本の国際貢献の形が求められる今、その平和主義を世界に誇れる形で提示してゆくことは、実は、難民問題への対応を考える事と切っても切り離せない内容的連関を有しているのです。
法学研究の方法論が様々に展開されてきた歴史の中で、純粋法学という方法が指向したことは、法の議論から(法以外の価値としての道徳的な)価値を徹底的に排除することでした。
それは科学が特定の価値に迎合するような形で科学性を失ってはならない、という問題意識に貫かれた方法でしたが、同時に、法学は法が社会において客観を装 い、時にはその装いの中で構造的暴力として機能しうるということに、科学の機能を超えて意識的でなければならないという難しさを提示しているのかもしれま せん。
実務家においても同様に、難民問題への対応を知り、考えることには、こうした意味で法に携わる者に法の限界と責任を意識させる側面があるのです。


 
伊藤塾塾便り226号/HUMAN SECURITYニュース(第28号 2014年6月発行)より掲載