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第32号 本での外国人の生活実態は、一体誰がどのように知っている?

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

これまでに、ミャンマー出身者のための日本語教室における参加者の様子や聴き取り結果をご紹介してきました。
日本語習得は、新たな職業等に結びつくものとして捉えられているように見受けられます。
彼らの多くは、現在は飲食関係の仕事に就いていますが、日本語教室で日本語を習得し、ゆくゆくは通訳業や翻訳業をはじめ、技術を身につけ民族の住む地域に戻って活かしたい、さらには自分が日本語を教えてみたいという意見も聴くことができました。

 その一方で、日曜日の教室に参加した後、今日はこれから仕事があるから、と足早に帰ってゆく人もいます。
また、仕事を理由にして教室を欠席する人なども出てきています。
せっかく理想的な日本語習得の機会を得たとしても、継続が難しいという人たちがいるわけです。
各々に事情は異なりますが、月曜日から土曜日までは仕事があり、それで疲れ果ててしまう人も少なくありません。
 
 そもそも一般的に、日本における外国人たちはどのような暮らしをしているのでしょうか。
厚生労働省による「『外国人雇用状況』の届出まとめ(平成25年10月末現在)」によると、外国人労働者を雇用している事業所数は約13万箇所、外国人労働者数は約72万人(東京都が最多の約20万人、次に大阪の約8万人)とされています。
この数は、平成24年10月末からの1年間で、約7,000箇所、約4万人の増加を意味しています。
事業所を産業別に見てみると「製造業」が約30万人、「宿泊業・飲食サービス業」が約8万人となっています。

 なお、この数字は、一部例外を除く外国人を雇用する全ての事業主に政府への届出が義務付けられた平成19年10月以降、集計に基づき明らかになったもの です(雇い入れ時と離職時に、定められた項目について届出を行わなければ、その事業主には30万円以下の罰金が科されます)。
お気づきかと思いますが、届出がなされていない範囲についてはもちろん明らかになっているわけではありません。
加えて、日本の入管制度においては単純労働者には正規の在留資格が用意されていない一方で、現実的にはそうした業種で安い労働力を国内調達したいという企業の要請が少なからずあることもまた事実です。
このため、研修制度を使って事実上の安価な単純労働力の供給が行われてきた、という実態があります。
結果として、労働規範のないアンダーグラウンドな世界に実体経済と人権保障が潜ってしまっている、という問題を抱えています。
もちろん研修制度には一定の改善がもたらされたものの、本質的な問題は未だ解消されてはいないというべきでしょう。
要するに、労働市場の中には実態として把握されない領域があり、そこでは弱者がやはり劣悪な環境に結果的に置かれることになるのです。

 もちろん普通に考えれば、不法入国(旅券偽造など法を侵してまで用意周到に計画された入国形態)や不法残留(合法的な滞在許可期限を過ぎて居残り続けること)をする本人が悪く、またそれを雇う企業が悪いのです。
さすがに法がこの建前を無視することはできません。
しかしながら、もしそのような状況に「追い込まれた」人々がやむを得ずに日本に来ているという事情をも考慮した場合、それでも彼らだけが悪いと言い切れるでしょうか。
少なくとも、日本において彼らを取り締まったところで、原因は本国におけるさまざまな問題にあるわけですから、それでも彼らはリスクを冒して日本に来ようとし続けるのではないでしょうか。
つまり症状に対する適切な治療であるかが問われねばなりません。
国際社会に後押しされる形で、日本も人身取引の取締りや難民保護制度の充実を通じて、このような「人の移動」の問題に本格的な対応を始めようとしている今日、このような観点が重要になってきます。
 
 そう考えると、対応の前提となる実態把握が届出(のみ)に基づくものでは、何とも心細くはないでしょうか。
届出などできないところでの問題、そこでは弱者が理由はともあれ結果的にしわ寄せを食い、本人の意識さえも分からなくなる状況(貧しさゆえ望んで働きに来ているという認識など)の中で、結局のところ搾取されている人々がいるのではないか。
言うなれば現代の奴隷制度の一つとも言うべき状況があるのではないか。
 
 こうした問題意識から、筆者はこの日本語教室に参加し、実態把握を試みようとしています。もちろん、この教室の参加者たちはみな正規滞在者ですが、それ でも日本にいるということは、経済的な事情を含めて、何らかの社会的な背景を持っているはずであり、その実態を本人たちとの対話の中から見出してみたいの です。この意味で、華々しく社交的な国際協力とはまた別の、現実の国際社会の姿の一端がここにある、と筆者は考えています。弱者を語る時に日本人も外国人 もないはずです。それどころか、このような国籍を前提とした区別自体、見方を変えれば強者と弱者の区別の制度化であると見ることができるかもしれません。 まして、法が強者を支え弱者を踏みにじるだけの道具であるなら、いずれ人々は法を見放してしまうのではないか。そういう予感がしてならないのです。人権感 覚が問われる場面でもあるように思います。


 
伊藤塾塾便り230号/HUMAN SECURITYニュース(第32号 2014年10月発行)より掲載