第35号 難民の支援とは何か ~言語支援という側面から見えること~

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

難民の支援と聞いて、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
難民キャンプで生活する難民が、食糧配給や医療を受けている姿。
世界各地にいる難民の保護と支援活動を行う国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの国際機関、あるいは国際NGOでしょうか。
中には、日本における難民に対する法的支援や日本語支援を思い浮かべる方もいるでしょう。
 この問いからは、少なくとも難民の支援が行われている「現場」と支援を受ける難民の「姿・状態」、そして支援を行う「組織・人」と「支援そのもの」という大きな4つの側面が浮かびあがってきます。
難民の支援が一様ではない、という言葉が意味しているものは、難民の支援を行う組織・人が多様であり、これに応じた支援の目的や支援そのものが多様であるというだけに留まりません。
むしろ、難民が生きる場の多様性や、流動性のなかで生きていくうえで必要となることが一人ひとりで異なるという側面をもち合わせている、それが根底にあるのではないでしょうか。
この点が特に際立つのが、教育分野の支援だと思います。
筆者が、毎週日曜日に参加し実態把握を試みようとしている日本語教室での取り組みは、主に言語習得、日本語の能力を身につけることを目的とした難民も含むミャンマー出身者(成人)に対する支援であり、教育分野の中でも特に言語支援の試みとして捉えられます。
2014年の5月から始まったこの取り組みも早7ヶ月が経ちました。
当然のことながら個々人で日本語習得の程度は異なります。
こうした側面をみると、言語習得のような、知識や能力を身につけることを目的とした教育分野の支援では、常に人によって必要となる支援が異なるのだということが見えてきます。
どの言語を習得するのか、という点は、その後にどこでどのような環境でどのように生きていくのか、という点と密接に関わっているように思います。
 ことばの理解の有無は、人間の生死をも分けてしまう。
ことばによって自分を守ることができる一方で、たとえば日本語がわからない、日本語が読めない・書けない、相手の話している日本語が理解できない、自分の 状況を日本語で説明できない、といった状況では、不当な労働を強いられていても気がつかない、体調が悪くても病院に行けない、暴言などによる圧力から自分 を守ることができない、などということにもつながりうるからです。
 
 また、文化や社会的背景の違いもあるでしょう。
たとえば筆者は、ことばを介して相手とコミュニケーションをとることが得意ではありません。
自分の状況や言いたいことをことばで正確に伝えることや相手の言っていることを正確に理解することは、母国語でさえ、日本人同士でさえ難しく、ことばの力は大きいものだということを日々感じています。
誤解なども日常的に起こります。
ましてや、自分の全くなじみがない言語で生活をすることを選択せざるを得なくなったとしたら、自立した生き方をするには言語習得は必須条件となることでしょう。
 
 以前のコラムでもご紹介しましたが、長期化した難民キャンプでさえ、難民が教育を受けられる機会は限られており、UNHCRによると、緊急事態のなかでは教育的ニーズに高い優先順位が与えられない場合が多く、限られた資源しか割り振られないことが指摘されています。
しかしながら、言語支援を含めた教育を受ける機会の確保は、難民がその後にどこでどのような環境でどのように生きていくのか、すなわちその後の人生や生き方を大きく左右するものでもあります。
言語支援は、今この瞬間を生きるためにも必要不可欠な支援ではないでしょうか。
それは、身体的な生命の維持とはまた別の次元で、人の生死を左右するものでもあると思うからです。


 
伊藤塾塾便り233号/HUMAN SECURITYニュース(第35号 2015年1月発行)より掲載