第43号 信頼ある社会

山本 哲史 名古屋大学大学院法学研究科特任講師 東京大学寄附講座「難民移民(法学館)」前事務局長

■法に足りないもの
80年代から90年代にかけてドイツの大統領を務めたヴァイツゼッカーは、連邦議会での演説(永井清彦訳『新版荒れ野の40年』岩波書店、2009年)で、「過去に目を閉ざすものは、現在についてもやはり盲目となる」と述べました。
いろいろと深みある言葉を残している彼は、法律家としても活躍してきた経験から、「自由民主主義を維持するためには法と裁判所だけでは足りず、加えて市民の勇気ある行動が必要なのである」とも述べています。
昨今の日本の情勢、とりわけ9条解釈をめぐる一連の動きの中で、ヴァイツゼッカーのこのような言葉や、それとの関連でのドイツの振る舞いはあまり注目されてこなかったように思います。
しかし私はそのこと以上に、ヴァイツゼッカーが法律家であって、それゆえその限界を知り、法律家への世間の空想的な期待を戒め、他方では法律家自身による傲慢を省みる必要のあることを訴えていた側面に注目したいのです。 ■法は法
もちろん法は社会において重要な役割を担っています。
そして社会は複雑ですし、それゆえ複雑な理論や一筋縄ではゆかない実務上の困難もあることでしょう。
そうであればこそ、法曹資格を有する者や、法を学ぶ者、あるいは法学部で法を研究する者やその知見を教授する者は、やはりその難しい内容を理解し使いこなせる人材である以上、尊敬尊重されるべきだと思います。
しかしそのことと、法の機能を本質以上に過信し、現実との間にギャップを生み出してしまうこととは、意味が違うと思うのです。
法は法であって法以上でも法以下でもありません。
法を守ることも法を作ることも、社会あってのことですし、社会のすべての問題を解決できるわけでもありません。
■信頼の機能
法が機能するうえで重要な要素の一つが、信頼だと思います。どんな制度も信頼なくして成立しえないと思いますし、信頼は、法に反する者をある意味では力で捻じ伏せようとする強制執行の場面においてさえ、やはり必要になるものなのだと思います。
変な例かもしれませんが、私の勤務するモンゴル国立大学法学部のあるウランバートルには、立派な国民デパートもありまして、そこでも社会に信頼が必要であることを意識させることがありました。
国民デパートで電気ポットを購入したときのことです。
電化製品を購入する際、支払いを済ませると、商品を1階の引き渡し場所で受け取るのですが、担当者が購入者の眼の前でテレビや掃除機などの商品を開梱し、電源を入れて動作確認をし、再び梱包して、ようやく商品は引き渡されます。
日本では見慣れないこの作業のために、カウンターの前には長い行列ができています。
信頼があればこのプロセスは省略されるのかもしれないな、などと思いながら見ていました。


 
伊藤塾塾便り243号/HUMAN SECURITYニュース(第43号 2015年11月発行)より掲載