真の法律家・行政官を育成する「伊藤塾」
 
2024.10.01

第351回 袴田事件

 9月26日、静岡地裁で袴田巌さんへの再審裁判で無罪判決が出ました。今回の無罪判決は、逮捕されてから58年間に渡る、ご本人と姉の秀子さん、弁護団、そして支援者の皆さんたちの努力の賜物です。ですがこの事件そのものが日本の刑事司法の大きな汚点であると同時に敗北であると思っています。これだけの人権侵害の救済に58年もの歳月を要した日本の刑事司法の現状は直ちに改めなければなりません。

 1966年、静岡県の味噌製造会社専務宅が全焼、焼跡から4人の死体が発見され、当時、従業員であった元プロボクサーの袴田巌さんの犯行として逮捕された強盗殺人事件です。袴田さんに対し極めて過酷な取調べが行われた結果、虚偽の自白を強要されました。この自白強要の過程も本当に酷いものでした。

 

 警察は、逮捕後連日連夜、猛暑の中で取調べを行い、トイレにも行かせない状態にしておいて、袴田さんにひたすら自白を迫ります。取調べ録音によると、取調べ19日目には4人の捜査官によって「お前が犯人だ、謝れ」と延々責め立てられ、「お前は4人を殺した」などと10回も繰り返されました。20日目に至って袴田さんは自白し、数日後に起訴されます。起訴後も警察の取り調べは続き、自白調書は45通にも及びました。なお、弁護人が袴田さんに会えた時間はこの間合計で30分程度です。

 

 自白の信憑性は疑問だらけでした。自白された犯行の動機についても、検察の見立てにあわせ変化していき、最終的には強盗目的とされました。犯行当時の着衣は当初パジャマとされましたが、公判中血痕が付着していたという鑑定自体が疑わしいことが明らかになり、事件から1年2ヶ月経過した後、工場の味噌樽の中から発見されたという犯行着衣5点が新たに提出され、検察は自白とは全く異なる着衣に犯行内容の主張を変化させています。そのような中で、第一審の静岡地裁は提出された検察調書44通を無効としながら、1通のみを採用して有罪を言い渡します。その後最高裁で1980年に死刑が確定しました。

 

 このような理不尽に対して、1981年に第一次再審請求が行われましたが、2008年3月に最高裁で棄却されます。同年4月、第二次再審請求がなされましたが、そこで弁護団から5点の衣類の味噌漬け実験の結果が新証拠として提出されます。この実験によって、この味噌漬けされた着衣は捜査機関による捏造の疑いが明らかになり、2014年静岡地裁で再審開始が決定され、ようやく袴田さんが釈放されたのです。

 

 その後、検察側はこの再審開始決定をなんとか覆そうと即時抗告しますが、その後の検察と弁護側との攻防を経て、2023年東京高裁は、2014年の地裁の再審開始決定を支持し、検察による特別抗告が行われなかったため、ようやく再審開始決定が確定します。そして静岡地裁で再審が行われ、今回の無罪判決に至りました。10月1日時点では未だ検察官が控訴する可能性が残っており、最終的な決着はついていません。

 

 この袴田事件は、死刑判決が確定した冤罪事件の例としては戦後5件目で、島田事件以来35年ぶりです。逮捕されて再審無罪判決が出るまで、免田事件は34年、財田川事件は33年、島田事件は34年、松山事件は28年かかっています。袴田事件では58年もかかっており圧倒的に長期間です。拘禁期間だけでも47年7ヶ月となり、袴田さんは世界で最も長く拘置された死刑囚となるそうです。

 

 死刑囚は毎日、執行が今日なのではないかと怯える日々を送り、大変な恐怖にさらされます。袴田さんは、こうした長い拘禁生活の中で精神を病んでしまったため釈放されましたが、これは2014年の静岡地裁の再審開始決定で指摘された「拘留を継続することは耐えがたいほどの正義に反する状況」といえます。その後、無罪判決までさらに10年もかかっています。

 

 この袴田事件は冤罪であったことは明らかと思われます。たとえば、被害者の血痕はまずズボンにつきその下に染みることでステテコに付着するというのが普通なのに、ステテコにだけ血痕が付着していました。さらに、ステテコには血痕が付着していないのにその下のパンツに付着していて、極めて不自然な状況でした。味噌樽の中から発見されたズボンの着衣実験が法廷で行われていますが、袴田さんには小さすぎて腿のあたりまでしかズボンが上がりません。さらに犯行着衣とされた5点の衣類に付着していた血痕のDNA鑑定の結果、袴田さん、被害者いずれのものでもないことが判明しています。犯行時に通過したとされる現場の裏木戸は犯行時には鍵がかかっており人が入れる隙間もなかったのですが、捜査機関は、鍵をはずした上で通り抜け実験を行い、虚偽の報告書を裁判所に提出していたのです。これらは証拠の捏造と言わざるを得ないものでした。

 

 今回の事件では4人も亡くなっており、警察・検察も被害者や遺族のことを考えれば厳罰に処すべきという思いが強くなるのは当然かもしれません。確かに検察が犯人を起訴し、裁判で有罪とすることが検察への信頼、日本の刑事司法への信頼につながることは否定できません。しかし、間違いだということがわかったならば、一歩引いて過ちを認めることができる検察への信頼の方が重要であるし、意味のあることと考えます。

 

 捜査機関が証拠を捏造することなどあり得ないと思うのが一般的かもしれません。ですが、捜査機関による証拠の捏造や隠蔽はこれまでも何件も起こっています。警察や検察が絶対に間違いを犯さないという無謬性への思い込みを捨てて、人は間違いを犯すことがあるという前提に立って証拠を見直したり、裁判する姿勢が必要なのです。

 

 冤罪事件では言うまでもなく深刻な人権侵害を引き起こします。人の人生が奪われるだけでなく、時として命も奪われ、家族など関係者の生活も一変させます。その上、当該事件の犯人が別にいるはずですから、その真犯人を取り逃してしまうことになります。今回も捜査官は自分たちの見立てだけを盲信して突き進み、結果として真犯人を逃してしまいました。被害者の遺族はどんなに無念か。このように二重の不正義を招くのが冤罪なのですから、冤罪を防ぐことは、検察を含む刑事司法に関わるすべての当事者にとって極めて重要なことなのです。

 

 刑事訴訟の目的については、これまでも長らく議論されてきました。犯人を処罰するための手続きとして見るのか、無実の人を間違っても処罰しないための手続きと見るのかという全く正反対の見方があります。この点、憲法13条に規定されている個人の尊重の観点からは、後者と考えるべきです。10人が凶悪犯と疑われているうち1人だけ無実の人がいるはずだがそれが誰がわからないといったときでも、全員無罪にして釈放する。9人の凶悪犯が社会に戻ってきてしまうけれども、社会はそのリスクを引き受けながらも、1人の無実の人に刑罰を科すことは絶対あってはならないというのが、無罪の推定、疑わしきは被告人の利益にという刑事訴訟の原則です。憲法は、疑わしきは罰しないという選択をしたのです。

 

 世界には「疑わしきは罰する」という国もありますが、そういう社会では自分や家族が無実であるはずなのに、証拠をでっち上げられ国家権力によって命を奪われそうになることがあり得ます。それは勘弁してほしいというのが無罪の推定であり、そうした選択を憲法制定権者がしたのです。私たちはどういう社会で生活するのが幸せなのか、改めて自分事としてこの問題を考えていかなければなりません。

 

 この袴田事件から現在の刑事司法制度で改善すべき点を3つあげます。第1は、冤罪学を発展させることです。冤罪の原因や対策を学問として研究することはほとんどありませんでしたが、塾生でもあった元裁判官の西愛礼弁護士が『冤罪学』(日本評論社)という著書で研究成果をまとめています。この冤罪学を進展させるために、リスクマネイジメント、心理学、科学技術の知見など関係する他学問分野と連携しながら実践的な研究をさらに進めていくことが不可欠です。

 

 第2は再審法の制定です。現在は再審に関してたった19ヶ条の規定しかなくあまりに不十分です。再審手続においては一度有罪が確定している事件を扱うのですから無罪推定は及ばないともいえそうです。この点に関して、最高裁の白鳥事件決定(1975年5月20日)は、①再審の裁判では、新しく提出された証拠だけでなく、他の全証拠と総合して判断し、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせれば足りる、②「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は、再審にも適用されると判示しました。「疑わしきは被告人の利益」の原則が憲法13条からの要請であるとすると、当然に再審手続においても貫徹される必要がありますからこの点も明確にするべきです。

 

 また、迅速な再審裁判も必要です。再審に時間がかかりすぎることは、裁判拒否と同じであり、迅速な裁判を受ける権利(憲法37条)の侵害になります。袴田事件では、第一次再審請求で27年かかり、第2次再審請求も15年かかっています。あまりにも時間がかかりすぎます。その原因として、捜査機関が持っている無罪を疑わせるような証拠を隠したり、廃棄してしまって弁護側には見せないことがあげられます。被告人側は再審開始に必要な新たな証拠を見つけるために大変な努力を要しますが、再審事件においても証拠開示が正しく行われることが迅速な再審裁判につながります。

 

 そして、その再審開始決定に対しては検察の不服申し立てを認めない規定も必要です。憲法は、「何人も、実行の時に適法であった行為又は、既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」(39条)と規定し、二重処罰の危険から被告人を守っています。この考え方を再審裁判にも当てはめ、人権保障の観点から検察官による不服申立は許さないという規定を設けていくべきと考えます。

 

 第3として死刑制度の存否について議論を深める必要があります。死刑には賛否両論あることは承知していますが、裁判は人間が行うものですから、本件のように間違いが起こることがあります。その間違いで死刑が執行されてしまったら、取り返しがつきません。今回のように証拠を捏造してまで無実の人に対する国家による殺人が行われるリスクが残るとしたら、死刑制度を残すことは憲法上許されないと考えます。しかも絞首刑という執行方法のみならず、死刑執行までの拘禁は、命を奪うこととは別の、法律に根拠のない残虐な刑罰(憲法36条)にあたるのではないでしょうか。

 

 こうした制度改善や深い議論は法律を学ぶ私たちにとって重要であることはいうまでもありません。ですが、冤罪事件から得られる教訓はそれに留まりません。2011年6月の塾長雑感(190号)において布川事件という再審無罪事件での捜査機関による証拠のねつ造について述べています。

 

 こうした問題が起こると、正しく権力を行使できなかった個人の責任が問われることなく、組織や制度の問題が議論されます。先に述べたようにこの点は極めて重要です。しかしどんなに立派な組織や制度であっても、それを支えるのは個人です。今回の袴田事件でも自白の強要や証拠を改竄した警察官、それらを追認した検察官や裁判官も「官」として大きな過ちを犯しました。

 

 塾生の中には、裁判官志望の方や、将来検察組織の中心となって活躍する方も大勢いると思います。その時に忘れてほしくないのは、人間は過ちを犯すことがあるという当たり前のことです。特に検察権力は人の命を奪うことすらできる、強大な国家権力です。だからこそ、そのような謙虚さを忘れないでほしいのです。

 

 「官」つまり権力を持つ個人が謙虚さを失い、組織防衛に走ってしまい、本来の責任を果たさないことがどれほど人の人生を狂わせることになるのか。これは行政官も同じです。皆さんもそうした立場に立つ可能性があります。人は誰もが過ちを犯す危険があるという謙虚さを失うと視野が狭くなり判断を誤ります。このことを自覚して法律家・行政官としての職責をしっかりと果たしてほしいと心から願っています。




 

伊藤真塾長

伊藤 真

伊藤塾 塾長

司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
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