第352回 法律家と教養

皆さんは音楽を聴いたり、絵画を見たりすることは好きですか。小説や哲学書、歴史書を読んだりしますか。受験勉強や仕事が忙しくてそんな余裕はないという声が聞こえてきそうです。まずは目の前の試験の準備が大切であることはいうまでもありません。ですが、合格後を考えるという観点でみたときに、法律とは一見無関係に見えるこうした文化、芸術に触れて、一筋縄ではいかない人間の営みや人間存在そのものについて思いを馳せたり、創造の世界で感情を揺さぶられたり、自然に感性を刺激されることは重要な意味があると考えています。
歴史を知り現在と未来を見る目を養ったり、世界の情報を得て日本の常識を疑ってみたり、旅行で知らない土地に行ってみて、そこでの文化、風習に触れ、自然に圧倒され、視覚だけでなく嗅覚、味覚、触覚なども刺激されたり、文学作品によって間接体験を重ねたり、音楽、絵画、演劇、映画、漫画など芸術作品に触れて感動することは、自分の直面している課題(受験、仕事、人間関係の悩み等)を相対化することに大いに役立ちます。
教養という言葉は、英語だとCulture,education,breedingなどと訳されるようですが、少しニュアンスが違うような気がします。学歴や知識量を超えたその人自身の人格、品性と結びつくものですし、大学などの一般教養はまさに「自由に生きるための技法」であり、「真理がわれらを自由にする」(国立国会図書館法前文)のですし、「真理はあなたを自由にする」(ヨハネ福音書8章32節)のですから、支配的な物事を見る枠組から自由になるための知恵が教養なのだと思います。
自分を客観視する力は教養によって培われます。そして自分を相対化するだけでなく、現存する法や制度そのものを相対化して疑ってかかる姿勢も教養によって獲得されるものですが、それは人類の進歩にとって重要であるのみならず、とりわけ法律家にとって不可欠な能力といえます。現存するシステムを無批判に受け入れることがあってはならないということです。
人間は不完全な生き物であることを知ることが法の意義を理解し実践する上での基本的な出発点です。不完全な人間だからこそ合理的自己抑制としての憲法があり、異質な他者と共存するために立憲主義という基本原理が必要となります。ここで人間存在に対する理解としての教養と法がつながります。
人間は不完全であるが故に過ちを犯します。袴田事件再審無罪判決で検察も証拠捏造に関与したことを指摘されました。警察のみならず、検察も不正に関与していたことになります。検察官の不正行為のみならず、近年弁護士、裁判官などの法曹による不祥事に関する報道を目にするようになりました。弁護士は、弁護士法1条2項で「誠実にその職務を行い、社会秩序の維持」することが規定されていますし、検察官は、刑罰法令を適正かつ迅速に適用・実現することを使命とします。裁判官が法を遵守しなければならないことはいうまでもありません。
依頼者から高額な金銭を預かることが多い弁護士による横領事件が相次いでいます。読売新聞の調査によると2018年以降の5年間で起訴や弁護士会による懲戒処分を受けた者は50人おり被害総額は約20億円にも達するそうです。最近では、詐欺の被害者救済を名目に9億円を超える着手金を集め、大量の二次被害者を生み出したり、架空の投資名目による詐欺のほか、弁護士でもある広瀬めぐみ元参議院議員による公設秘書給与詐取の報道も記憶に新しいところです。
また弁護士以外でも、金融庁に指導や助言を行うために出向した裁判官が、立場を悪用し未公表情報をもとに不正な株取引を行う、大阪地検のトップの検事正が酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行を行うなど、法曹とはにわかに信じられないような事件も発生しています。
難しい司法試験を突破して晴れて法曹になったにもかかわらず、こうした不正に手を染めてしまうのはなぜなのでしょうか。企業不祥事に関してはコンプライアンスの分野で従来から、不正のトライアングルが指摘されています。
不正のトライアングルとは、不正は動機・機会・正当化の3要素が揃ったときに生まれるという考え方です。例えば捜査機関ならば犯人を逮捕し、処罰しなければならないという強い正義感に基づく動機が生まれ、起訴までの時間制限から来るプレッシャーによってこの動機が増幅されます。取り調べが弁護士の立ち会いなしに密室で行われることから、自白の強要等が起こる機会が存在します。そして犯人を逮捕し処罰するためには、多少の不正もやむを得ないという正当化が行われるのです。このように不正が行われる動機・機会・正当化の三要素がすべて揃ってしまうことによって違法捜査が行われやすくなるわけです。
弁護士による依頼者からの預かり金の横領なども、ギャンブルなどで作った借金を返済しなければならないという動機や、自分ひとりで管理しているため預かり金に手を出すことができる機会があり、後で仕事をして返せば大丈夫という自己正当化が働き、つい手を出してしまうわけです。
こうした不正のトライアングルの他にも、警察・検察による不正の場合は、上層部の意向に従わなければならないという組織風土が冤罪を生む原因になっているともいえます。上司の見立てに沿うような取り調べをしなければ、組織の中で出世できない、上司の命令は絶対だという組織風土が不正を招く土壌になっているということです。
さらに犯人を逮捕して処罰をすることを期待する社会からのプレッシャーもまた大きな冤罪の原因になっています。現在でもテレビドラマなどで、たとえ違法捜査をしてでも、犯人を捕まえれば喝采する番組が制作され人気を博すことがあります。無罪の推定や適正手続に関してあまりにも無頓着です。
社会全体が実体的に真犯人を処罰できれば、手続などどうでもいいという風潮を助長しているように思えてなりません。この手続的正義という考えは法的思考の基本なのですが、あまり一般には浸透していません。そして、法律の制定や執行も、解釈や事実認定も人間が行うことですから、そこには間違いが当然に含まれ得るのです。人は過ちを犯すという大前提を理解しておかなければなりません。
冤罪をなくすためにはその原因を検証し、同じような原因で冤罪を再生しないようにする知恵と実践が必要となります。ところが日本では冤罪はあってはならないもの、公務員は間違ってはならないという無謬性にとらわれすぎているため検証ができません。人は誰でも間違えるからこそ冤罪が生じるという現実を直視して、起こってしまった冤罪から学ばなければならないはずです。こうした観点から見ると冤罪を認めない畝本検事総長の袴田事件における控訴断念談話は絶望的なものでした。
この談話が検察への信頼にどう影響するかという大きな視点が欠如していたのです。自分や組織を客観視する能力が欠如しているという点では、冤罪を引き起こす現場と何も変わらないように思えます。
不正に手を染める自分を一歩引いて客観的に見る力が欠如していると不正の3要素が揃うことによって過ちを犯します。最近相次ぐ法律家の不祥事も自分の行動を客観視する力の減退が理由の一つであるような気がしてなりません。つまり教養の欠如です。自分自身の価値基準に照らして許されることなのかを冷静に問い直す力です。
皆さんは法律家として道を踏み外すことなく、より高品質の意思決定を実践するために、自分自身の中の価値基準を作り上げていかなければなりません。「自分の頭で考えて、自分で意思決定し、その結果に対して責任を取る」ための教養です。自分で考えるためには知識としての教養が、決断するための価値基準を持つための教養が、責任を取るための誠実さ、インテグリティを養うための教養が必要なのです。そのために少なくとも合格後は、文化・芸術・自然などに触れて自分の素直な感性を大切にしてほしいと思っています。
そうして磨き上げた感性が教養としてその人の品格となり、人格を形成し、言葉の説得力や行動力として現れてくるのです。法律家として仕事をする上で必要なバランス感覚、俯瞰してものを見る力なども、法が人間の生き様を対象としている以上、人間の精神活動の営みの結果としての歴史、哲学、文学、芸術、科学などと無関係であるはずはありません。これらに興味関心を持ち、感動する感性を養っていくことは、正解が見えない問題に対処し、自分なりの物差しを持ち、その価値基準を大切にして法律家として仕事をしていく上では、極めて重要なことと考えます。
法そのものを相対化してみること、自分自身を相対化して深く内省し客観視すること、物事の時間軸と空間軸を広げてみることが大切です。そのために「有効な無駄」が必要なのです。一見、目の前の試験や仕事、法には関係なさそうに思えたとしても、法を使って仕事をしていく上で、この法そのものが果たして正しいのか、この解釈で正しいのか、自分の独りよがりの正当化に陥っていないかなどを一歩引いて見る力として教養が大きな力を発揮するはずです。

伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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