第353回 論語と算盤

最近、福沢諭吉よりも渋沢栄一を目にすることが増えました。特に、カードが使えないお店で現金を扱うときにその印象を強く感じます。そんな中、渋沢栄一の「論語と算盤」を再読し、法的思考と同様にバランス感覚がいかに重要かを改めて認識しました。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉があります。これと同様に、弁護士などの法律家は清貧を美徳とし、お金を稼ぐことを邪道と考える傾向があります。かつては、企業法務で稼ぐ弁護士を「ブルジョア弁護士」、略して「ブル弁」と揶揄する人もいました。今でも、大手法律事務所に就職してビジネスローの専門家になるか、町弁として個人の人権を守る弁護士として活動するかで迷う合格者がいるようです。
弁護士、司法書士、行政書士などの士業を目指す人は、事業者として働くことが多いと思いますが、当然、一定の収益を上げなければなりません。公務員として働く裁判官、検察官、行政官は相当な報酬を得るため、生活に困ることはありませんが、官僚は仕事の割に報酬が低いと感じることがあるかもしれません。それに比べて、外資系コンサルティング会社などの民間企業の方が収入が多いことから、最近は法曹や行政官よりもそちらの道を選ぶ若者もいると聞きます。確かに、お金はないよりもある方が良いでしょう。
しかし、今の時代に人権派弁護士を清貧、ビジネス弁護士をブルジョアとステレオタイプで決めつけるのは適切ではありません。弁護士を類型化することはわかりやすいですが、意図的な印象付けと受け取られる可能性があります。
現在、人権問題を扱う弁護士だからといって清貧に甘んじているわけではなく、研鑽や事務所の維持には当然費用がかかります。ネット被害やジェンダー問題、ハラスメント問題などでしっかり報酬を得る事件も増えており、CALL4のような公共訴訟を支援する仕組みも充実しつつあります。
一方で、ビジネス弁護士も人権問題から無縁ではいられません。社内のパワハラ、セクハラ、ジェンダー差別などの人権問題は日常的に発生していますし、対外的にもSDGsやESG経営(環境、社会、ガバナンスの3要素を重視する経営方針)、さらには児童労働や人権デューデリジェンスなどは企業にとって避けて通れない課題となっています。
現在、私は一銭の報酬も得られない公共訴訟ばかりを行っていますが、それは塾を主宰する立場で、ある程度自由な時間を作れるからです。公共訴訟は報酬を得るためのものではなく、平和や人権のために無償で貢献することが弁護士の美徳だと考えているわけではありません。
一人一票裁判を共に闘っている升永弁護士や久保利弁護士も、ビジネスローの世界で大きな成功を収めたからこそ、公共訴訟をプロボノ(専門知識を活用したボランティア)として推進する余裕があるのです。経済的に成功した弁護士がその収入をどう使うかは、その人の価値観の問題です。
世の中はお金で回っていますから、経済的価値基準が重要であることに異論はないと思います。しかし、最近ではそれだけでは持続可能な社会にはならないのではないかという懸念が世界でも広がっています。
一時期、アメリカ流の株主第一主義が日本でも持てはやされましたが、それが環境問題や消費者問題、さらには多くの不祥事の遠因となっているのではないかと懸念されています。株主の利益を最大化するだけの経営は、様々な矛盾を抱えていることが明らかになってきました。その中で、アメリカでも2019年にビジネス・ラウンドテーブルが株主至上主義からの脱却を宣言しました。ここでは、株主だけでなく従業員や顧客などあらゆるステークホルダーに価値をもたらす活動を行うと宣言しています。
これは、近江商人の「三方よし」(売り手によし、買い手によし、世間によし)に代表されるような、日本の商人が元来持っていた道徳的商売理念を現代の企業経営に活かそうという機運とも言えます。
そのような流れの中で、渋沢栄一が近年再評価されているとのことです。渋沢栄一は、近代国家建設の礎として、あらゆる社会インフラに関する実業を日本に定着させることに尽力し、その思想は「論語と算盤」にまとめられています。道義的責任を持って収益を上げる経営、つまり道徳的経営が世界でも見直されているのです。
「論語と算盤」という言葉は、渋沢が69歳のときに出会ったもので、彼自身が論語の道理を重視して実業の世界を創り上げてきたことから、この表現に深く共感したとのことです。志高い武士を目指した彼が、国政から実業という当時一段下に見られた業界に身を転じる際、金銭に目がくらんだのかという批判や、世間の官尊民卑の風潮に反論します。
今日において、金銭を軽視していては国家が立ち行かないことは、憲法が予算、すなわち国家(国王)の歳入歳出をコントロールするために生まれたことからも明らかです。しかし、当時は相当な覚悟が必要だったのだと思います。政治の本質は希少資源の分配にあると考えますが、税の取り方や使い方こそが政治の要であり、予算編成が国家運営の根幹です。財務の重要性は、今の国会での論戦を見ても明らかでしょう。
そういえば、アメリカ大統領選挙でも、民主主義や人権という理念よりも物価高で苦しむ国民の生活をなんとかしてほしいという思いからトランプ候補が再選されたとの見方があります。日本でも、抽象的な理念よりも103万円の壁を壊して手取りを増やすという国民民主党の訴えの方が有権者に響いたようです。国民にとって、自分の生活のためのお金の問題が最も重要であり、そのお金のやりくりで国家が成り立っているのですから、選挙の際にお金の問題が重要な判断基準となるのは当然です。
先進国で唯一、実質賃金が上がらず「失われた30年」から脱却するためにもがく日本が、新たに収益を上げられる産業をいかに育てるかが重要な課題であることは明白です。「算盤」に象徴される実業やビジネスなど、稼ぐための活動は国家にとっても、私たちの生活にとっても不可欠です。そうであるならば、弁護士など士業においてもこれが重要であることは否定できません。
それにもかかわらず、弁護士が稼ぐことが正面から評価されてこなかった理由は何でしょうか。医者や弁護士は人助けを無償で行うべきであり、お金を稼ぐことは卑しいことで、高尚な仕事にはふさわしくないという思い込みが、近年まで存在していたのかもしれません。この考え方は、ノブレス・オブリージュに象徴されるように、貴族など生活に困らない余裕のある人々の仕事であるという固定観念に基づいている可能性があります。
しかし、弁護士など士業が資格を取得して稼ぐことは、今日では後ろめたいことではありません。皆さんも獲得した資格を活かして、しっかりと稼いでほしいと思います。ただし、その際には「算盤」だけでなく、「論語」を忘れないことが重要です。
高い志や理念を持って仕事をすることで、しっかりと稼いでほしいのです。志や理念がなく、単に稼ぐことだけが目的になると、心の余裕を失い、社会に貢献できず、むしろ悪影響を及ぼす可能性があります。時には道を踏み外す危険すらあります。
論語には孔子の有名な言葉があります。
「子いわく、15にして学に志す。30にして立つ。40にして惑わず。50にして天命を知る。60にして耳したがう。70にして心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず。」
孔子のように15歳で学問によって身を立てようと決意することは、なかなか真似できません。しかし、次のような反対解釈も可能なようです(中国古典研究家・守屋淳)。実は孔子は「30歳まで自立していなかった、40歳まで自分の進む方向に確信が持てずに迷っていた、50歳まで何をすればいいのか天命に気づかなかった、60歳まで人の言うことを素直に聞けなかった、70歳になるまで心の赴くままにふるまってルールを破ることもあった」とも解釈できます。
このように読み直すと、孔子も人間らしい一面を持っていたことが見えてきます。私も36歳で伊藤塾を立ち上げ、憲法の価値を実現する法律家の育成に邁進しようと決意するまで、迷い続けていました。これも、まあまあかなと思えるようになりました。まだ66歳ですし、少し傍若無人に振る舞っても許されるかなとほっとしています。
しかし、孔子が言いたかったのは、天命に気づくことよりも、人生の根底には理想や志が必要だということではないでしょうか。その理想や志は高ければ高いほど、達成が困難です。したがって、志や理想を達成できたかどうかよりも、その高い志に向かって努力する過程の真剣さが重要であり、結果はその努力の過程に必然的についてくるものと認識することが大切です。
この点は、憲法13条が保障する幸福追求権が「追求権」であり、「幸福権」ではないことと関連しています。幸福の中身は自分で決め、その決めた幸福を追い求める過程が重要であり、いかによりよく生きるかが大切だと13条は示しています。
憲法は「未完のプロジェクト」と言われます。平和や人権などの価値を実現することを憲法は理想として掲げますが、それはなかなか実現が難しいものです。しかし、その崇高な理想(憲法前文)に向かって努力する過程そのものが貴重なのです。
個人や組織の利益追求は非常に重要です。人間の欲望をエネルギー源として利益を追求することによって資本主義は成り立っていますから、これを否定することはできません。しかし、それだけで終わってしまうと、誰かの不幸の上に自分の幸せが成り立つ社会になりかねません。
綺麗事と言われるかもしれませんが、やはり社会全体の幸せの総量が増えることを目指すべきではないでしょうか。国益や公益の追求とは異なる話ですが、より多くの人が幸せになること、社会の幸せの総量が増えることを目指すことは、その社会の一員として当然の責務だと思います。
渋沢が公益に資するビジネスを推進しようとしたことは、士業として活躍する人が専門知識を公益的な問題解決に活かそうとすることと通じるものがあります。論語は孔子の言行録ですが、2500年以上前の思想が今に生きていることは驚くべきことです。それだけの普遍性を持っているということでしょう。
「論語と算盤」は、「論語」に象徴される道徳と「算盤」に象徴される利益追求という、一見対立し矛盾するように見える概念を両立させることの重要性を謳ったものです。この対立する概念の調和は、東洋思想の陰陽に見られるように古くからある考えですが、この困難な作業は法律解釈の基本であり、法律的思考(リーガルマインド)の重要な一部です。
憲法における民主主義と立憲主義、民法における動的安全と静的安全、刑法における法益保護と人権保障など、あらゆる法律は重要な概念の衝突を調整するために存在すると言っても過言ではありません。法の目的として、法的安定性と具体的妥当性という矛盾する要請の調和が求められます。我妻栄博士の「理屈と人情」に代表されるように、法律を扱う者は常にこの対立する概念の調和に悩まされてきました。
このようなバランス感覚は、士業をビジネスとして成功させ、志を実現するためにも重要です。この対局にある価値の調和のためには、両者を一段高い次元から俯瞰する力が必要です。それが前回の雑感(352回)で指摘した教養だと思います。自分と社会を冷静に客観視し、異質な他者との共存を目指して努力する法律家は、ビジネスとしても成功するに違いありません。
法律を学ぶ中でこのバランス感覚を身につけ、収益を上げて大いに稼ぎながら、高い志を掲げて社会の幸せの総量を増やす努力を続けてほしいと思います。それは伊藤塾で学んだ皆さんなら必ず実現できると信じています。

伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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