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2024.07.01

第348回 人質司法

 「角川さん、あなたは生きている間にはここから出られませんよ。死なないと出られないんです。」これは、6月27日に提訴された角川人質司法違憲訴訟の原告である角川歴彦氏が勾留中持病悪化によって命の危機を訴えたのに対して、拘置所の医者から投げかけられた言葉です。角川氏は、いち早くメディアミックスに着目してコンテンツビジネスを進め、角川書店をKADOKAWAに大きく育て、角川グループ会長を長年務めてきました。『失楽園』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』などの映画プロデューサーとしても活躍し、映画の盗撮防止法の制定にも貢献した方です。

 その角川氏が、東京五輪のスポンサー選定をめぐる汚職事件に巻き込まれます。特捜部がメディアにリークした情報によって自宅などへの取材攻勢が続き、これを止めさせるべく2022年9月5日に代表記者による取材に対して「高橋氏にお金が渡っていたことすら全く知らなかった」「部下の社員に不正はなかったと信じている」と答えました。すると、東京地検特捜部からの呼び出しを受けて応じた任意聴取において担当検事が「まずい、まずい、まずい、あれはないでしょう。角川さん、記者会見をしたらいけないでしょう」とあたかも無罪主張をしたらいけないかのように非難されます。そして同月14日に突然、五輪組織委員会元理事高橋治之氏(みなし公務員)への贈賄容疑で逮捕されそのまま東京拘置所に収監されました。拘置所では無罪の推定が及んでいるはずの角川氏は看守から「これからあなたを囚人として扱います」と告げられます。

 

 その後、弁護士の立ち合いもなく連日長時間にわたる取り調べが続くのですが、角川氏は一貫して容疑を否認し続けました。79歳という高齢の上、2年前には7時間に及ぶ心臓大動脈瘤の大手術をし心房粗細動という脳梗塞を生じうる持病を抱えていて十数錠の薬を飲まなければならない身であったにもかかわらず、収監時に薬が与えられることもなく、以後、非人道的な身体拘束が226日間も続きます。検察から情報をリークされたメディアも、五輪のスポンサー契約を会長であった氏がトップダウンで決めて贈賄に及んだという見立てを報道しましたが、取締役会長といっても角川氏には代表権も何の決裁権もなく、取り調べでは一貫して部下との共謀を否定し、自身の経歴を記録する調書にさえ拇印を押さず一切の署名を拒否します。

 

 収監中の角川氏は接見中に体調悪化のため気を失って椅子から崩れ落ちたり、強い心臓の動悸で苦しくなったりしたにもかかわらず、十分な治療は一切受けられませんでした。慶應義塾大学病院の主治医が「不整脈が起きており血栓のリスクが高まっている。生命の危機が高まっている」という所見を述べているにもかかわらず、被疑事実を否認していたため、数度に及ぶ保釈請求も認められなかったのです。第5次保釈請求がやっと認められて東京拘置所から出た際には、一人で歩くこともできないほど衰弱し車椅子を押されての生還でした。

 

 こうした苛烈な人権侵害の実態は、角川氏の著作『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』(リトルモア)に詳しく記録されています。法曹をめざす皆さんにはぜひ読んでほしい一冊です。このタイトルは、731部隊を世に知らしめた「悪魔の飽食」や「人間の証明」で有名な森村誠一氏と角川氏とは生涯の友人であったため、森村夫人の快諾を得て書名としたものです。

 

 従来から指摘されてきたこのような日本の「人質司法」の過酷な現状は、何としても改めなければなりません。「人質司法」とは、刑事手続で無罪を主張し、事実を否認又は黙秘した被疑者・被告人ほど容易に身体拘束が認められやすく、釈放されることが困難となる実務運用をいいます。これまで日本では多くの検察官及び裁判官が、法律で身体拘束の要件として定められている「逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由」や「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」(刑事訴訟法60条、89条)について、憲法や国際人権法に適合するように限定的に解釈せず、安易に身体拘束を認めてきました。

 

 このような解釈・運用により、憲法及び国際人権法上保障されている「人身の自由」(憲法34条、自由権規約9条1項)が侵害されるのみならず、「恣意的拘禁の禁止」(憲法34条、自由権規約9条1項)、「推定無罪の原則」(憲法31条・刑事訴訟法336条、自由権規約14条2項)、「比例原則」(憲法13条)及び「身体不拘束原則」(憲法13条、33条、34条、自由権規約9条3項)に反し、「黙秘権(自己負罪拒否特権)」(憲法38条1項、自由権規約14条3項(g))、「防御権」(憲法37条2項・3項、憲法38条、自由権規約14条)、「公平な裁判所の裁判を受ける権利」(憲法37条1項、自由権規約14条1項)、)といった憲法及び国際人権法上の権利が侵害される状況となっています。

 

 黙秘権や防御権が保障された公正な裁判を受ける権利を放棄しなければ、自らの人身の自由が保障されないという二者択一を迫ることは憲法の人権保障の観点からは許されるはずもないことですが、それがこの日本でまかり通ってしまっているのです。

 

 この「人質司法」という病理は、単なる刑事訴訟法の解釈問題ではありません。人間の尊厳、そして自由と権利にかかわる憲法と国際人権法の問題であり、憲法と国際人権法に照らして、日本における現代の刑事司法の在り方そのものが問い直されなければならないのです。一刻も早く日本の刑事司法を、世界標準(グローバル・スタンダード)に沿ったものに改めなければなりません。

 

 この訴訟の弁護団には、刑事事件の弁護人を務める弁護士も含まれていますが(無罪請負人と呼ばれる弘中惇一郎弁護士や袴田事件再審開始決定の際の裁判長だった村山浩昭弁護士など)、角川氏の無罪を訴える刑事事件とは全く別個の訴訟です。角川氏の保釈金と同額の2億円の国家賠償請求をしていますが、角川氏は勝訴した場合に得た賠償金は拘置所医療改善のために寄付することを予定しています。

 

 私はこの裁判を日本社会の人権の水準を引き上げるための公共訴訟であり、人権の原理原則から問い直す「人権裁判」と位置付けて受任しました。訴えの中心は人身の自由(恣意的拘禁を受けない権利)です。一般に人身の自由は、刑事手続の全過程における人権として語られ、主に適正手続きの保障の具体化として理解されることが多い人権です。しかし、人身の自由は、憲法の人権保障の体系の中においても、重要なものとして位置づけられており、単なる手続保障のための人権にとどまりません。実体的にも極めて重要な内容をもった人権なのです。

 

 ドイツ憲法(ボン基本法)は、ナチス時代の強制収容所への厳しい反省から、その1条1項で「人間の尊厳は不可侵である」、2条2項で「人身の自由は不可侵である」と規定します。表現の自由などの精神的自由や経済的自由よりも前に人身の自由が保障されているのです。

 

 日本はどうでしょうか。戦前の刑事手続きは糾問的捜査観の下で、被疑者を取り調べの客体として扱い、拷問、自白強要など苛烈な人権侵害が行われてきました。その反省にたって、日本国憲法は人権規定の三分の一を刑事手続きにおける人権保障にあてています。いわば、戦前との決別を図ったのです。しかし実務の現場では明確な戦前との断絶が行われておらず、人身の自由があまりにも軽んじられてきました。

 

 日本大学法学部玉蟲由樹教授によると、以下のように人身の自由は極めて重要な意義があることが指摘されています。まず第1にそれ自体が固有の人権として憲法による保護を受けると同時に、「他のすべての憲法上の権利を共有するための前提となる権利」という特別な位置づけを有し、人権保障全体の前提条件としても機能します。第2に、人の身体の自由の保障は、「個人の尊厳」という憲法秩序全体を覆う根本的な原理と直接に結びつく、重要な意義を持ちます。第3に、人身の自由の保障は、とりわけ刑事手続との関係において、いくつかの重要な手続的保障を要請するものです。

 

 人身の自由が人権保障全体の前提条件であるという点は、人が身体を物理的に拘束され、自由な移動等が制限されれば、職業行為等の経済的な活動は言うに及ばず、集会への参加なども大幅に制限され、家族生活をも阻害されることから容易に理解できます。このことは人身の自由に対する制限が、経済的自由や精神的自由の制限を不可避的に伴うことからも明らかといえます。「人身の自由の保障がなければ自由権そのものが存在しえない」とされる所以です。このような意味において、人身の自由は、人権保障全体の前提条件というべきほどの重要性を持った人権なのです。

 

 このことは、人身の自由が、他の人権よりも根源的で、「個人の尊厳」と直接結びつく人権であることを意味します。憲法13条前段が規定する「個人の尊重」の意味するところは、個人の自由意思が確保され他人の意思によって支配されない、つまり人間の道具化の否定です。かけがえのない個人を国家や社会が代替可能な道具や手段として扱ってはならないということであり、まさに「個人の尊厳」の尊重の要請です。

 

 「個人の尊厳」は、公権力は個人を公益実現のために処分されうる単なる「モノ」として扱うことは許されず、常に自律的・主体的な「人」として取り扱わなければならないことを要請します。人身の自由という根源的な人権の保障がないがしろにされれば、あらゆる自由の行使は成り立ちません。人身の自由が不当に制限され、人が国家の意思に隷属させられているような状態は、単なる自由の制限を越えて、人間の尊厳に対する侵害なのです。

 

 角川氏が被った理不尽な扱いの実態を被拘禁者の立場から直視し、その想像を絶する苦痛を理解することは、刑事司法に携わる法曹三者であっても容易なことではないかもしれません。しかし、人質司法によって甚大な人権侵害が生じていることは紛れもない事実です。生身の人間であり、個人として尊重されるべき尊厳を持つ主体的な個人がその根源的な人権を侵害されているのです。憲法は、被疑者、被告人、受刑者を問わずすべての国民を個人として尊重します。無実の者だけでなく罪が確定した受刑者であっても人権が保障されるべき人間なのです。

 

 一般人の感覚としては、悪いことをして捕まったのだから、牢屋に入っているのは当然だと思うかもしれません。たとえば、大谷翔平選手の通訳として信頼を得ていた人間が、約26億円も盗み、銀行や大谷選手も騙し、なんて酷い通訳なんだ、そんな奴が拘束されずにバイトまで自由に出来るのはおかしいんじゃないかとか、カルロスゴーン氏も、悪い人なのだから、ずっと捕まっていればいいと思っている人も少なからずいたように思います。司法の世界において何が当たり前であるべきなのか、世界標準はどうなのか、思い込みを捨てて、視野を広げて、憲法の原理原則から考え直してみる必要があります。

 

 誰もがいつ何時、身に覚えのないことで被疑者として拘束されるかもしれません。この問題はすべての人にとって他人事ではないのです。その国の人権状況は刑事施設での被拘禁者の扱いを見ればわかるといわれます。法律を学ぶ私たちは、今一度、「個人の尊厳」の尊重を心に刻む必要があります。被疑者、被告人であっても国家権力による有罪立証のための道具、自白を得るための手段として扱ってはならない。どれだけ犯罪の嫌疑がかけられていようと、人間としての尊厳は尊重されなければならない。それが文明国家の刑事司法として当然の在り方のはずです。




 

伊藤真塾長

伊藤 真

伊藤塾 塾長

司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
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