真の法律家・行政官を育成する「伊藤塾」
 
2023.04.01

第333回 桜と寿命

 毎年、この時期の雑感は桜がテーマです。

今、渋谷の伊藤塾前にある桜並木が満開です。そろそろ散りかけていますが、まだ見事な花を咲かせています。国際的な観光名所にもなってしまったスクランブル交差点のついでに寄ってみようということでしょうか、外国人も大勢訪れて写真を撮っています。

 昨年までは5月に試験があったものですから、この時期は司法試験、予備試験受験生にとって最後の追い込みで花見どころではありませんでした。今年から試験が7月になったことで、少しは気持ちに余裕があるかもしれませんが、100日くらいあっという間に過ぎてしまいますから油断はできません。もちろん司法書士受験生も公務員受験生も同様です。桜で春を感じながらも一日一日は大切にして下さい。

 

 さて、この桜は一般的には60年から80年の寿命だそうです。人間とほぼ同じだと思う方もいるかもしれません。音楽だけでなく、様々な社会的に意義ある発言を続けてこられた坂本龍一さんが71歳で亡くなりました。平和運動でも大きな力を頂いてきただけにとても残念です。私は思わず憲法の寿命も考えてしまいました。日本国憲法が施行されて今年で76年ですが、そろそろ古くなって寿命が尽きたと言い出す人がいるのではないかと思うからです。改憲派の常套文句ですが、戦後一度も改正されていない、時代に合わないなどと攻撃され続け、特に昨今は、憲法を無視して解釈改憲なるものが横行しています。

 

 政府は、ロシアのウクライナ侵攻などにより国民が不安を感じていることに乗じて、防衛力増強と日米軍事一体化を強力に進めていますが、これは憲法が許さない「国のかたち」の大きな変更です。本来ならば国民的議論を経た上で憲法改正手続によって実現するべきもののはずです。ところが、安倍、菅、岸田政権は、正規の憲法改正手続をとることなく、まず憲法9条に違反する実態を作り出しておいて、現実と憲法が食い違うことは立憲主義の観点から好ましくないなどと改憲を主張してくる危険があります。

 

 反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有はこうした改憲への布石ともいえます。このように解釈の変更による違憲の新安保法制法制定(2015年)、憲法無視の防衛政策の転換(2023年)といった法の下克上(立憲主義破壊)が進んでいるのが、現在の日本ではないでしょうか。

 

 2014年7月1日の閣議決定において、同盟国が攻撃されたときに自国への侵害とみなして、その相手国への攻撃を正当化する「集団的自衛権」の行使が容認されてしまいました。集団的自衛権の行使は、自国に対する武力攻撃が発生していないのに相手国を攻撃することを意味します。戦力の保持を許さず、交戦権を認めないとしている憲法9条2項の下では、そのような自衛権行使は認められません。

 

 何よりもそれまで一貫した政府解釈として集団的自衛権の行使は憲法に違反するとしてきた国をあげての憲法実践を単なる閣議決定で反古にしてしまったのですから、立憲主義に真っ向から反することになります。その結果、どこまでの武力行使が許されるのかの歯止めがなくなり、いわば法が存在しないのと同様の状態に陥ってしまったのです。

 

 したがって2014年7月1日の閣議決定は、憲法の条文に反する解釈であるのみならず、憲法秩序・立憲主義の破壊と言わざるをえません。もともと憲法9条は集団的自衛権を含む軍事同盟を禁止し、集団安全保障を目指すものであったはずです。それを集団的自衛権の行使を認めることによって、構造本質的にまったく異なる憲法に変質させてしまったのですから、まさに石川健治東大教授が指摘するように法的クーデタといえます。

 

 日本に対する武力攻撃が発生していなくても、日本が集団的自衛権を行使して敵基地を攻撃すれば、それが仮に国際法上許される集団的自衛権の行使であったとしても、攻撃を受ける側からすれば、日本を攻撃していないのに日本から事実上先制攻撃がなされたという事態となり、日本に対して反撃する理由を与えてしまいます。

 

 そもそも日本が相手国領域に反撃の名目で攻撃した場合、紛争はそこでは終わりません。相手もさらに反撃してくるでしょうからミサイル攻撃の応酬になり、双方とも相手を殲滅するまで止められなくなります。これでは憲法のもとで許されるとされてきた「自衛のための必要最小限度の武力行使」とは到底いえず、9条2項で保有が禁じられている「戦力」に該当することは明らかです。

 

 また、この攻撃によって敵のミサイル基地や指揮統制機能(軍司令部さらには政府関係機関)を破壊したり、相手国の兵士を殺傷することになるため、2項で否認されている「交戦権」の行使にも該当します。そして、決着がつくまで止められない全面戦争を行うことは、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄することをうたった9条1項にも反することになります。
このように、敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有することは、憲法9条に違反し決して許されないと考えます。これらが杞憂に終わり、タレントのタモリさんが指摘したような「新たな戦前」にならないことを祈るばかりです。なお、敵基地攻撃能力ないし反撃能力の保有に関しては、日弁連も保有に反対する意見書を昨年の12月16日に発表しています。

 

 さて、こうした憲法無視の状態を司法の力によってくい止めるために、2016年4月の東京地裁を皮切りに全国で25の安保法制違憲訴訟を提起しました。残念ながら、これまでの地裁、高裁における判決は新安保法制法の違憲性には一切触れることなく、憲法判断を避けるものばかりでした。事実認定を歪める形であえて憲法判断を避けようとした裁判所の姿勢は、人権保障と憲法保障の担い手としての職責を放棄するもので到底許されるものではありません。

 

 日本の裁判所は、これまで憲法9条が問題となる様々な平和訴訟において、一部の例外を除いて明確な憲法判断を避けてきました。その結果として、2014年7月1日の閣議決定のような無法が許されてしまい、法による歯止めがない状態が生まれてしまったといえます。こうした非立憲的な政治状況を生み出した一因に裁判所の消極的な態度があることは間違いありません。

 

 世界の立憲主義諸国はどこも裁判所が政治部門から独立して、極めて政治的な問題であっても明確な憲法判断を下しています。日本だけは依然として統治行為論の発想から抜け出せず、政治部門に対して違憲と指摘することに極めて消極的です。世界の憲法学会からも言葉を選ばずにいうと笑いものにされているような状況です。

 

 確かに、民主的基盤を持たない裁判所は政治部門の判断に対しては謙抑的であるべきだと主張されることがあります。安全保障の問題に立ち入りたくない裁判所として憲法判断に消極的であることを正当化する理由として一見、もっともらしいようにも思えます。

 

 しかし、フランスの「転轍手」理論によって指摘されているように、裁判所の判断はたとえ違憲判断であっても最終的には憲法改正国民投票を含めた国民の判断に委ねられることになるのですから、民主主義という観点からは全く問題はありません。

 

 むしろ、本来ならば憲法改正手続によらなければ実現できないような「国のかたち」の変更を、政治部門が専断的に行った立憲主義の破壊行為に対して、国民の憲法改正・決定権を護るために裁判所が明確な違憲判断を下すことは、日本の立憲民主主義に基づく政治過程の核心を尊重・擁護することに他ならないのです。決して民主主義に反することにはなりません。

 

 青井未帆学習院大学教授、志田陽子武蔵野美術大学教授、飯島滋明名古屋学院大学教授、長谷部恭男東京大学名誉教授、石川健治東京大学教授などの名だたる憲法学者の先生方の協力、支援を受けながら進めている安保法制違憲訴訟ですが、今後も裁判所が平和に関する憲法問題について判断を避け続けることがあれば、この国は完全に無法国家、非立憲国家に成り下がってしまいます。

 

 日本の司法のあり方を世界の立憲民主主義国並みにするために、この訴訟は極めて重要な意味を持っていると考えています。そしてこの訴訟における原告の主張、国側と裁判所の対応をしっかりと記録に残すことが、今後のさらなる平和訴訟の礎となることは間違いありません。裁判所が将来、歴史の審判を受けるのと同時に、これに立ち向かう私たち弁護士も法律家として歴史の評価に堪え得る仕事をしなければならないのです。そのような思いで今、最高裁への上告理由を起案しています。まだまだ国民に、坂本龍一さんが希望と言ってくれた憲法9条の精神そして日本国憲法の寿命が尽きたとは思わせたくありません。




 

伊藤真塾長

伊藤 真

伊藤塾 塾長

司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
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