第345回 桜と坂

東京は先月29日に開花宣言がありましたが、伊藤塾渋谷校前の桜は満開までもう少しのようです。ここの桜並木の坂道(桜坂)は欅坂46のヒット曲「サイレントマジョリティー」のPVのエンディングの撮影が行われた場所です。この歌の歌詞の中の「どこかの国の大統領が言っていた 声を上げない者たちは賛成していると 選べることが大事なんだ 人に任せるな 行動しなければNoと伝わらない」という部分は、2016年当時、安倍政権によって強行採決された新安保法制法に対して違憲訴訟を提起するときに、そんな訴訟をしても無意味だという声に抗うために自分に言い聞かせようと繰り返し聞いていたことを思い出します。最近、この歌詞は高校の新歴史総合の教科書(第一学習社)でも取り上げられているようです。
なぜこの桜坂を上ったところに伊藤塾を創ったのか振り返ってみました。塾を立ち上げた1995年当時の日本は、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件もあり、悲観的な世相に包まれていました。そんな時だったからこそ「坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを みつめて、坂をのぼってゆくであろう。」という意識的な楽天主義(『坂の上の雲』司馬遼太郎・著)が必要な時代なのだと思ったのです。合格した後の活躍する姿を目指してテキストを抱えて桜坂を上って行く、それは結構しんどいのですが、希望に満ちた歩みです。
私自身も当時、伊藤塾(伊藤真の司法試験塾)の行く末について確信が持てたわけではありません。規模も小さくベンチャーの先駆けみたいなものでしたし、当時の3大司法試験予備校に挑むドン・キホーテのように見られたかもしれません。だからこそ自分を励まそうという気持ちで坂の上を目指していました。そのときも自分の中の大きな不安と闘っていました。
考えてみれば30年前、前職を辞めようと考え始めたときから不安を抱えていました。そのときこのままの仕事を続けていた方が楽でいいんじゃないかと弱気になる自分自身の気持ちと闘っていました。安定を求める自分と変化を求める自分との葛藤は、何が自分自身のミッションなのかが明確でなかった30代半ばの自分には、将来が見通せない不安とともに大きなストレスでした。
20年前の2004年、司法制度改革があり、法曹養成制度が大きく変わります。司法試験予備校、塾批判の嵐の中でそれに反論したり抵抗したりするだけでなく、法科大学院に行かなければ法曹になれないという流れができそうだったので、それに対して、法曹の多様性を確保する必要があると訴え続けて、この理不尽に抗い闘ってきました。
10年前の2014年、安倍政権が閣議決定で集団的自衛権行使を容認してしまい、立憲主義、平和主義が主権者の意思を無視して改変されてしまうという許されないことが起こってしまいました。これを放置することは法律家として許されないと考え、翌年、強行採決された新安保法制法に対して違憲訴訟を提起し、この理不尽に抗い、今も闘い続けています。
そして、今年2024年、伊藤塾は来年30周年を迎えます。そのために自らも伊藤塾も変わらなければならないと思っています。司法試験では圧倒的な合格実績を叩き出し、公務員試験でも国家総合職の合格率、内定率では他を圧倒し、司法書士、行政書士試験においてもその送り出す人材の多様性と質において他の指導校を圧倒している今、私の心の中に、このままでいいのではないか、あえてリスクを冒して大きな変化を求める必要はないのではないか、という守りの気持ちが生まれることがあります。ですが、ダーウィンが指摘したとおり、生き残るのは、大きくて強い者ではなく、変化に対応できる者なのです。来年の伊藤塾30周年を迎えるにあたって、どこまで自分が変われるかが問われているのだと思っています。
自民党の裏金問題においても、自民党という組織そして議員一人ひとりがどこまで変われるかが問われています。国民の意識とあまりにも乖離してしまった金銭感覚をどこまで一般の納税者の感覚まで戻して新たな制度設計できるかがポイントになります。一般に変化を拒む要因としてこれまでの自分を正当化する心理が働くのではないでしょうか。
議員の中には個人の私腹を肥やす人もいたかもしれませんが、それ以上に、党や県連、後援会などの組織のために良かれと思って裏金を蓄えていた議員もいたことでしょう。組織のためと思っているから違法性の意識の可能性があっても、それを打ち消すための正当化ができてしまったのです。冤罪も捜査官は巨悪を許さないという自らの正義感によって筋書きにそった自白、それが虚偽であっても強要することを正当化してしまうのです。それでいつまでたっても変わることができずに同じ過ちを繰り返してしまいます。
政治家の中に、パーティー券代金も適切に会計処理している、法に違反していないのだから問題ないという開き直りのような気持ちが生まれていないでしょうか。検察が起訴していないのだから問題ないとか、政治資金規正法に違反していないという類の言い逃れが繰り返されました。ですが、違法でないから許されるという態度は非立憲的です。実は戦前においても立憲主義が重視された時代がありました。憲法学の西の雄、佐々木惣一京都大学教授が、「立憲非立憲」(1918年)という著作の中で次のように述べています。
「政治はもとより憲法に違反してはならぬ。しかれども憲法に違反しないのみを以て直ちに立憲だとはいえない。違憲ではないけれども非立憲だとすべき場合がある。立憲的政治家たらんとする者は、実にこの点を注意せねばならぬ。違憲とは憲法に違反することをいうに過ぎないが、非立憲とは立憲主義の精神に違反することをいう。違憲はもとより非立憲であるが、然しながら、違憲ではなくとも非立憲であるという場合があり得るのである。さればいやしくも政治家たる者は違憲と非立憲との区別を心得て、その行動のただに違憲たらざるのみならず、非立憲ならざるようにせねばならぬ。」ここで指摘されている、単に違憲、違法でなければよいというわけではない、法の精神に反してならないという指摘は今日にも通じる極めて重要な教訓と考えます。
昨今の政治家や企業の不祥事をみてみると、そこには、法の趣旨を無視する態度、結果が正しければいいだろう、多少の不正であっても組織のためにはプラスになるのだからいいだろうというルールを無視する態度、手続きを軽視する態度が根源にあるように思います。すなわち手続的正義の軽視です。「法の支配」という言葉が首相からも語られます。ですが、その法の支配の重要な一要素として、適正手続きの保障つまり手続的正義が含まれていることを忘れていないでしょうか。法の支配はそもそも権力を統制するためのものだという根本を学んでいないのかもしれません。
ただ、この点について政治家だけを批判するのはフェアではありません。日本ではそもそもそうした法教育が行われてきませんでした。その上、20年前の司法制度改革において、佐藤幸治京都大学教授が中心となってまとめられた司法制度改革審議会意見書において、当時、司法制度改革を進める際のキーワードとして法の支配が使われました。そこでは、法の支配がこの国の血肉になる、すなわち、法秩序があまねく国家、社会に浸透し国民の日常生活において息づくように改革すると述べられています。
要するにすべての国民が法を遵守し、法によって秩序を維持する社会にするための司法制度改革だといっているのです。権力を法で統制するという本来的な意味の法の支配の視点が後退してしまいました。ですが、今一度、法の支配の本来の意味、すなわち強いものは法によってコントロールされなければならない、強いものは手続きの適正を重視しなければならないという意味を確認しなければいけないのだと思います。
振り返ってみると、伊藤塾を立ち上げてから10年ごとに理不尽に抗い声を上げ続けてきましたが、法律を学んだ者として、憲法を知ってしまった者として、これからも自らを変革し声を上げ続けていきたいと思っています。それが坂の上の雲だけを見つめて一途に坂をのぼっていった先人たちの気高い精神に少しでも追いつく方法かと思っています。「気高い精神」と「すばらしい教育」を桜の花言葉の中に見つけたときはこの桜坂に伊藤塾を創って本当によかったと思いました。塾生の皆さんも自らの人生を変えるために、桜坂で生まれた伊藤塾を多いに活用して下さい。一緒に頑張りましょう。

伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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