第37回 事実の受け入れ方

択一試験で自己採点と返ってきた評価があまりにも違うので混乱しているという相談を何件も受けました。論文の評価がわかったときでも同じ事が起こる可能性もあります。
いつもお話しているように、どんな事実が自分の身の回りに起こったときでもそれを素直に受け入れなければなりません。たとえ自分には原因はないと思いたいようなことであっても、自分の周りで生じた以上はそれを受け入れなければなりません。
そうしたできごとを評価し、自分のものとするときの受けとめ方には二つのタイプがあるようです。ひとつはその事件を一般化して自分なりのルールとして受け入れる方法、もうひとつは、具体的な事実としてその事件をそのまま受け入れる方法です。
ある程度、気が廻る人の場合はどうしてもその事実を一般化して、ある規範として自分なりに事実を解釈してから受け入れる傾向にあるようです。たとえば、「きっとマークミスがあったに違いない」という具合にです。
この方法の場合、事実が"他人事"、"ひとごと"になってしまう可能性があります。なまの事実としてのインパクトが大きすぎて受け入れにくいので、自分で一般化をすることによって、事実を中和して受け入れやすくしているのです。
そして、その意味が自分なりにうまく説明がつけばいいのですが、自分で理解できない事実である場合にはかえって混乱してしまうようです。「マークミスがないように何度も確認したのにおかしい」という具合にです。
それに対して、自分の身に降りかかった事件をそのままの事実として受けとめる方法の場合は、勇気がいります。その場では意味もわからずただ事実として受け入れるのですから、これは大変です。他人事ではなく、あくまでも自分の身に起こったこととして、ときにはあくまでも自分が蒔いた種の結果としてそれを刈り取らなければならないのです。
しかし、そのときにその事実の意味など考えなくてもいいのですから気楽ではあります。そのうち意味はわかってくるよとのんびり構えていればいいのですから。ちょうどワインの熟成を待つという感覚です。
私もかっては、事実を教訓としてむりやり一般化してから受け入れるタイプでした。でも、その事実の意味がわからないと不安になりました。何で自分だけと思うこともしばしばありました。
もちろん、なんらかの教訓を引き出そうとすることは無駄なことではありません。しかし、たいていの場合、その教訓は気休めでしかないことの方が多かったようです。自分でその時点で早急に一般化した規範などが役に立った記憶はあまりありません。そのときの自分の限られた頭で理解できることなどたかがしれています。
それよりもそのような事実を正面から受けとめ、切り抜けたことの自信の方が後に役立っています。
何か事が起ったときはその事実をそのままただ受け入れればいいのだと思います。その時点では何もそこから学べなくてもいいのです。
それよりも、事実を事実として受け入れたということの方が意味があると思っています。これは事実の重みといっていいのかもしれません。

伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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