真の法律家・行政官を育成する「伊藤塾」
 
2022.10.01

第327回 裁判官のススメ

人の評価などあてにならないものですから、自分で生きたいように生きるのが一番です。安倍元首相の評価も評価する人の立ち位置によってまったく異なります。評価の物差しが違うのですから当然のことです。私は立憲主義や憲法価値の実現という観点から政治家としては全く評価しませんが、戦前の日本のような軍事的に強い国を目指そうという人や、抑止力を高めて軍事力によって自国の安全を守ろうという人たちには、人気があります。

彼は『この国を守る決意』という著書の中で、「軍事同盟というのは、“血の同盟”です。日本がもし外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。 しかし今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです」と指摘して集団的自衛権行使容認の必要性を説いていました。そして2015年9月には元最高裁長官をはじめ日本中の司法関係者が違憲と指摘した新安保法制を強行採決して、 アメリカのために血を流す若者を送り出せる日本に変えてくれました。 その上、高い武器を気前よく買ってくれるのですから、アメリカなどの外国から評価が高いのも当然のことです。

また、アベノミクスによる株価上昇による恩恵を受けた人や自民党政権しか知らない若者にも白黒をはっきりさせるスタンスが人気だったようです。将来のビジョンよりも目の前の現状を重視する人たちにとっても安倍政権がもたらす安定感は心地よかったのではないでしょうか。

それにしても国葬をめぐってここまで国論が二分されることは岸田首相も予想できなかったようです。日本の独立のためにアメリカと渡り合ったしたたかな外交戦略家の吉田茂氏とアメリカに尻尾を振り続けた安倍晋三氏とでは格が違いすぎるのに、なぜ内閣・自民党合同葬でなく国葬なのか、法的根拠や判断基準がなく恣意的だと批判されてもやむを得ない状況でした。エリザベス女王の国葬よりも費用が掛かった上、時期も近かったためか、参列者の立ち居振る舞いも含めていろいろと比べられてしまい気の毒にも思いますが、旧統一教会問題という政治の大きな暗部を見せつけられて、死してなお課題を残したことも評価が分かれる原因でした。

人間ですから誰であっても100%「善」であったり100%「悪」であったりということはありません。だからこそ評価する側の価値基準が問われるのだと思います。 人を批判したり、褒め称えたりすることは、その評価者自身が自分の価値基準を見つめ直すことにつながりますし、その評価者への外部からのさらなる評価を生みます。

そのことは評価対象が安倍元首相であろうと山上徹也容疑者であろうと同じです。たとえば、今日では、犯罪は自由意思によるという古典学派的理解を踏まえたとしても、何らかの原因があると考えるのが通常です。そして近時の犯罪の一部は社会が生み出したといえるようなものもあります。現在でも「最良の社会政策とは最良の刑事政策である」というリスト(19世紀から20世紀初頭のドイツ近代学派の刑法学者)の言葉は有効なのだと考えるかどうかで山上容疑者に対する評価も違ってきます。 

何事にも白黒つけたくなりますが、世の中はそんなに単純ではありません。 安倍元首相は自分の考えに反対する人を敵と決めつけて、徹底的に攻撃しました。国民・市民に対しても「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と国民・市民を分断する方法を選びました。 本来は、憲法43条1項で国会議員は全国民の代表とされているのですから、一部の国民の利益代表であってはならず、国民・市民を統合して国の意思を1つにまとめ上げていくこと(民意の統合)が政治に求められているはずなのですが、その逆を行ってしまったわけです。

札幌駅前での彼の選挙演説に対するヤジ排除は違憲・違法であることが裁判所によって判断されましたが、こうして敵を作り徹底的に排除する手法は安倍政権の際立った特徴でした。 トランプ元大統領とも気が合ったそうですが納得です。敵を作るのですから、攻撃も受けやすくなりますが、そのわかりやすさが一部では受けが良かったわけです。そうした敵を作る手法が、彼が亡くなった後も、国葬問題における世論の分断という結果を招いてしまいました。ある意味、この分断は安倍政権の負の遺産です。こうした分断された社会を今後も踏襲するかどうかが国民・市民に問われています。

そしてそれは国会議員が政治家として民主主義を実現したいと考えるかによって違ってくるのだと思います。 十分な審議討論によって妥協の道を探っていくことが民主主義の王道ですが、政治をそうした本来のあるべき姿に戻すことが、政治に対する信頼を回復するためにも必要なことだと思います。 

政治の場では、主権者たる国民の多数によって選出された国会議員によってしっかりと審議討論を行い、最後は徹頭徹尾多数決によって決定する。 そして、その政治部門の判断が憲法に違反する場合には、司法の場において裁判所がしっかりとした違憲判決によってダメ出しをする。違憲判決を突き付けられた国会・内閣としては、素直にそれに従うか、それとも、どうしてもその政策を実現したいのであれば、それが許されるように憲法を改正する手続きを進めて、最終的に主権者国民に決めてもらうかを選択するという立憲民主主義のプロセスを憲法は想定しています。そしてそのプロセスを生み出すきっかけは裁判所の判断なのです。

日本がこうしたダイナミックなプロセスをしっかりと踏める国になるには、あと何十年もかかるでしょう。それでもそうしたあるべき姿に向かって、国民・市民、国会議員、官僚・裁判官がそれぞれの役割を果たすことが重要です。私は現在、安保法制違憲訴訟を全国の有志とともに闘っています。最近は長谷部恭男東大名誉教授、石川健治東大教授も意見書を書いて下さり、法廷での証言などこの訴訟に多大な協力を頂いています。従来から日本の第一線で活躍する憲法学者の協力を得てきたこの訴訟ですが、高裁段階になってさらに受験生の誰もが知っている先生方の助力によって学問的観点から議論を深めることができとても感謝しています。

今、ここで、司法が役割を果たさなかったら、内閣を統制する何の基準もない国に成り下がってしまいます。まさに無法状態が続くことになります。1868年の明治維新から77年目に非立憲的政治による悲惨な敗戦を迎えて、そこから今年で77年になります。日本の近代化の折り返し地点での苦い教訓を踏まえて、日本国憲法が制定されました。そこから新たな立憲民主主義国家として歩み始めたはずです。その日本を大日本帝国憲法の時代、いやそれ以前に巻き戻してしまっていいのでしょうか。 

全国で25件の同様の訴訟を提起した控訴人らを含む7699人は、侵害された自らの権利の回復のみならず、毀損されたこの国の立憲主義の回復を求めて提訴することで「不断の努力」(憲法12条前段)を怠らず、自立した国民・市民としての役割を果たしました。全国の訴訟代理人も「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」弁護士として使命を果たそうとしています(弁護士法1条参照)。ですから裁判官にも司法の役割である人権保障機能と憲法保障機能を果たすことによって、立憲主義を回復するためその職責を果たしてもらいたいのです。

裁判官は、自らの良心に忠実に仕事ができ、憲法と法律にしか拘束されることがありません(憲法76条3項)。判決に対する評価も実は気にする必要がありません。そして、苦しんでいる国民・市民を、自らの判断で救うことができるし、自らの信念でこの国の憲法を護ることができる。一歩先のこの国の司法のあるべき姿を見据えて、憲法価値を実現し立憲民主主義を回復させることができる。法律家として、裁判官ほど純粋な論理によってその力を発揮できる職業はありません。とても魅力的な仕事です。そして何よりも、今、この非立憲的な負の連鎖を断ち切ることができるのは裁判官しかいません。

講義では厳しく裁判所を批判することもありますが、それでも裁判所に対する期待を失ってはいません。それは伊藤塾で学んだ司法試験合格者の皆さんに期待しているからです。司法試験の勉強をしている塾生の皆さんには、憲法価値を実現する気概を持ち、ぜひ裁判官になって、この国のシステムを立て直してほしいと願っています。誰かが「踏み出せば、その一足が道となる」(アントニオ猪木)のです。私も自分の道を迷わず行きたいと思います。 




 

伊藤真塾長

伊藤 真

伊藤塾 塾長

司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
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