第326回 信教の自由

ウクライナへのロシアによる軍事侵攻から6ヶ月たちました。一向に停戦の兆しは見えません。国連によるとウクライナ市民の犠牲者は5587人、国外避難した人は約1115万人、インフラ被害は15兆円余りだそうです。もちろん、こうした数字では現すことができない一人ひとりの人生の破壊が半年以上も行われてきたわけです。
これまでも世界で起こってきた多くの戦争にはどれも反対してきました。しかし、想像力の弱さからか、中東やアフガニスタンでの戦争はどこか他人事のように感じている自分がいました。
イギリス人の友人の兄がアフガニスタン戦争から帰還して精神的に壊れてしまった話やスイス人の友人が数度の徴兵期間をやっと終えたという話、そして韓国籍の塾生がいつ徴兵に行くか悩んでいるという話を聞いても、今ひとつ実感が持てませんでした。憲法9条の存在のおかげで少なくとも知り合いの自衛官が戦死することもなかったので、他国での戦争と自分の生活とのつながりが現実味を持って想像できていなかったのかもしれません。
それがウクライナ戦争に関して日々報道される現地の悲惨な状況を目の当たりにするだけでなく、ウクライナからの避難民を実際に渋谷で運営している日本語学校で受け入れたりする中で、現地の人々の暮らしの悲惨さをより具体的に考えるようになりました。
さらに日本国内の生活用品の高騰だけでなく、eBayなどで外国製品を購入する際の円安や、青森でやっている農業でも冬の間にトマトなどを栽培するハウスの燃料代が上がり困難を感じたりするなど、ウクライナ戦争が私たち自身の日々の生活にも影響していることを感じざるを得ません。
ロシアのような資源大国、農業大国が戦争することによって、世界中に影響があることがよくわかります。エネルギー不足、食料不足、物価高、そして円安など、戦争当事国のみならず、世界中の国々へマイナスの影響を与え、もちろん私たちの生活も多大な影響を受けることが改めてわかりました。
世界は繋がっているという実感を持ちます。負の連鎖ですから、本来は断ち切りたいのですが、世界は1つであり、地球に共存しているという事実から逃れることはできません。戦争では何も解決しない、この小さな地球でどんな理由があろうと戦争はいけないとつくづく思います。
戦前、日本は大日本帝国憲法の下で、神権天皇と軍隊と宗教とが三位一体となって戦争に突入していきました。その過去を反省して、日本国憲法が制定されたことを前回の雑感で指摘しました。ポツダム宣言10条で約束したように、「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去」しなければならないのですから、象徴天皇制、戦力不保持、政教分離を徹底させることが必要なはずです。そして、佐々木惣一博士が述べたように、政治家たる者は、明確に違憲とは言えなくても、立憲主義の精神に反する非立憲的な国家運営をしてはなりません。
そうした点から考えると、どう考えても自民党と世界平和統一家庭連合(旧統一教会ですが以後、統一教会と記します)との関係は問題です。安倍元首相の国葬に対する国民の賛否も当初は賛成が多かったようですが、統一教会と安倍元首相及びその取り巻き政治家との関係が明るみになるに従って、反対の声の方が大きくなっているようです。特にネットでは、Yahooニュースみんなの意見で75%が反対(8月31日)、文春オンラインでは79.7%(8月13日)が反対です。
岸田首相は、国葬に決めた理由として、憲政史上最長となる8年8ヶ月の長期政権であったこと、東日本大震災からの復興、アベノミクスをはじめとする経済再生、外交の展開など様々な分野で実績を残したことを上げています。また、弔問外交で外交的成果を上げたり、保守層を取り込み、自民党内での安倍派の支持を得られるなど政治的なメリットがあるのでしょう。
ですが、安倍元首相による非立憲的政治運営はもとより、祖父の時代から統一教会とつながりを持ち、宗教を政治利用した政治家の葬儀を国が喪主となって、国会での議論を全く経ることなく閣議決定のみで行うことは、どう考えても立憲主義の精神に反します。
内閣法制局の憲法関係答弁例集によると、「国葬とは、国の意思により、国費をもって、国の事務として行う葬儀をいう」と定義されています。国の意思を示すのですから、国権の最高機関であり、主権者たる国民の代表機関である国会が関与すべきは当然といえます。ここで「国葬」と「国葬儀」は別だと言い出すのは、首相も記者会見で「国葬儀いわゆる国葬」と述べている以上説得力もなく非立憲的です。
統一教会と政治家との関わりは多くの憲法問題を生みます。関係が明らかになった政治家の弁明を聞いているとあまり深刻に考えていないようです。政治家の権威によって特定の宗教にお墨付きを与えることは、何らかの特権を与えるわけでもなく、宗教団体が直接国家権力を行使するわけではありませんから、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(憲法20条1項後段)に反しないということなのでしょうか。しかし、政教分離原則の趣旨には反します。
また、政治家が宗教団体を自分の選挙に利用しようとすることは、国家が宗教活動をするわけではありませんから明確に20条3項に反するわけではありません。しかし、権力を担う政党が、権力を維持するために選挙で宗教を利用することは、やはり政教分離の趣旨に反します。宗教と政治とが結びつくことによって政府が破壊され、宗教を堕落させないためにも避けるべきことです。
信仰によって様々な不安や恐怖から逃れることができるようです。合理的に説明できない出来事や理不尽を受け入れるために役立つこともあるでしょう。毎日の生活や死後に不安を感じる人にとって宗教は不安を除去するために有効なのかもしれません。疑いから学問が生まれるのと異なり、畏れから宗教が生まれるとも言われます。論理的な理由付けなしで教義を正しいと信じることで本当に救われるとしたならばそれはそれで素晴らしいことです。個人の幸せは一人ひとり皆異なり、その幸せの内容は自分で決めるべきものであって、特に信仰心は極めて主観的な幸福追求の現れだからです。
ですが、そうした宗教と民主主義に基づく政治との共存は難しいものがありまます。何が正しいのかわからないという前提で、事実と論理と言葉によって相手を説得して、お互いの妥協の中からさらによいものを探究しようという民主主義のプロセスと、証明不要の宗教とが相容れないことは明らかです。
だからこそ、個人の信教の自由は最大限保障するけれども、政治と宗教との結び付きを出来るだけ避けようとしたものが憲法の政教分離原則です。西欧では教会が世俗の世界に介入して社会を混乱させることがないように、宗教からの介入を避ける方向で政教分離が進みました。日本の場合には逆に政治が宗教を利用して国民を戦争に駆り立てた事実があるため、戦後は政治が宗教活動すること、宗教を政治に利用することがないように憲法20条3項を規定したのです。
ですが、実は政治と宗教との癒着はこうした一方通行ではなく、まさに相互依存の関係であることが、今回の統一教会の問題で明らかになりました。統一教会は、政治家を広告塔、権威付けに利用し、政治家は統一教会を選挙活動などで利用してきたわけです。統一教会は、日本を資金源として位置づけて霊感商法などの違法行為を繰り返してきました。
霊感商法はまさに人々の不安な気持ちにつけ込んでものを売りつけるわけですから、人格権の侵害です。多額の寄付の強要も、人の不安や弱みにつけ込むのですから同様に許されることではありません。統一教会の伝道、教化活動そのものが個人の信教の自由を侵害する違法行為であることが判決で確定しています。
私人間効力の問題ですから、直接違憲とは明言していませんが、統一協会の伝道活動は、「社会的にみて相当性があると認められる範囲を逸脱した方法及び手段を駆使した、原告らの信仰の自由や財産権等を侵害するおそれのある行為というべきであって、違法性があると判断すべきものである」(札幌地裁平成13年6月29日)と判示されています。
さらに信仰は、一旦、信じさせられてしまうと後戻りすることが極めて困難な性質を持つものですから、「宗教上の信仰の選択は、単なる一時的単発的な商品の購入、サービスの享受とは異なり、その者の人生そのものに決定的かつ不可逆的な影響力を及ぼす可能性を秘めた誠に重大なもの」と位置づけます。
だからこそ、「そのような内心の自由に関わる重大な意思決定に不当な影響力を行使しようとする行為は、自らの生き方を主体的に追求し決定する自由を妨げるものとして、許されないといわなければならない」と、統一教会の正体を隠した勧誘は、信仰の自由への重大な脅威だとしています。
信仰は自らの自由意思に基づかなければなりません。憲法は信教の自由を精神的自由権、すなわち本人の自由意思に基づく個人の内面の問題として位置づけています。その自由を奪っておいて信仰させ、その上で信仰心を利用して、高額の物品を販売したり多額の寄付をさせることは個人の自由の侵害です。
判例でも「人は、言葉による論理的な説明を理解して信仰を得る(神秘に帰依する)のではない、神秘に帰依するとの選択は情緒を大きく動かされて初めて可能である」「信仰による隷属は、あくまで自由な意思決定を経たものでなければならない。信仰を得るかどうかは情緒的な決定であるから、ここでいう自由とは、健全な情緒形成が可能な状態でなされる自由な意思決定であるということができる。」(札幌地裁平成24年3月29日)と指摘されています。
冷静に考えれば迷信と気づくことであっても、不安に曝される中で繰り返されるとそれを事実と信じてしまうことは誰にでも起こり得ることです。人間である以上、客観的な事実と、自分が真実と思い込んだ主観的な事実とが食い違うことはどんな場面でもあることだからです。
たとえば、試験の世界でも、試験結果の出来不出来に関する主観と客観の食い違いは頻繁に起こります。出来たと思っていたら、実は大失敗だったことなどはごく普通です。そもそも人間というものは、自分が考えること、自分が信じることを客観的な真実と思い込みたいのかもしれません。だからこそ、法律家や行政官をめざす私たちは、いつも自分を相対化して、客観視する力を鍛えておかなければならないのだと思います。なお、ここではそもそも客観的な真実などあるのかという点は、一旦置いておきます。
さて、ここまでは、可能な限り客観的に正しいであろうことに近づくためのプロセスとしての民主主義に基づく政治過程に関わる者が、主観的な個人の信仰を利用してはいけないという話をしてきました。信仰は個人の問題であり、個人の幸福追求につながるものだからこそ、それを商売や政治に利用することは許されません。
ですが、実は逆の必要性もあることを確認しておきます。世の中で起こるあらゆる事実は、たとえ客観的な事実であったとしても、その事実が持つ意味は、その事実に関わった自分自身が決め得る極めて主観的なことです。その事実が多くの人にとってどのような意味をもっているかとは関係なく、自分なりの意味づけを自分で主体的にしていけばいいのです。
たとえば、試験の発表を受けて、その事実をどう受け止め、その事実にどのような意味を与えるのかは、自分で決めることです。ここでは客観的事実にどのような主観的な意味を与えるかが問題になりますが、それは自分で主体的に決めればいいことです。周りの評価に振り回される必要は全くありません。それこそ、自分の信じた道を進めばいいだけです。最後はうまくいくことになっているから大丈夫だと自分自身のことを論証不要で信じることができると少し楽に生きることができます。自らを信じる自信と頑固さとは紙一重なのかもしれませんが、信仰心のない人も自分教という信教の自由を享受することも、ときには有効かもしれません。

伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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