真の法律家・行政官を育成する「伊藤塾」
 
2022.06.01

第323回 マイ・プリンシプル

自分の考えを書いたり講演したりしていると、批判を受けることが多々あります。法科大学院制度ができるころもずいぶんと批判されました。塾では暗記や受験テクニックばかりの詰め込みがなされていて、まともな法曹が育たないと、司法試験を受けたこともなく現場を知らない大学教授から批判されたものです。

ですが、そのように批判された塾の指導によって合格した皆さんが実務の現場では様々な活躍をされていますし、学者、司法試験委員になった方もいます。私は批判に対して応える方法として対抗言論すなわち反論も一つの手段ではあるけれども、実践によって結果を出すことで応えるという方法もあるはずだと思い、それを実行してきました。

 

予備試験を目指して盤石な基礎を固める、法科大学院に入学する前に少なくとも予備短答に合格するくらいの基礎力をつけてから入学するという指導方法などは、その実践であり、私に対する批判への回答でもありました。

 

批判されたら実践して結果を出すことを目指してここまでやってきた結果、自分で言うのもなんですが、圧倒的な合格実績を出し続けることが出来ました。しかし、重要なことはその先にあります。実務で活躍できる真の法律家をどれだけ育成できたかの方がよほど重要なことなので、伊藤塾では27年前の開塾当初から「合格後を考える」が基本理念になっています。

 

40年以上にわたって実践してきた司法試験受験指導によって、どれだけ憲法価値(個人の尊重)を実現できる法律家を社会に送り出すことができたのか、伊藤塾の同窓生がどれだけ現場で活躍してくれているのか、それが私への批判に対する回答なのです。

 

私の憲法9条の考えを空想的、お花畑と批判する人も多くいます。

 

もちろん、どちらがお花畑なのかと反論はしますが、それよりも重要なことは実践だと思っています。講演、執筆もそうなのですが、少しでも実際の行動で9条の理念を具現化したいと思ってきました。

 

伊藤塾で多様な外国人を採用して、伊藤塾にいながらに国籍や肌の色の多様性を実感できるようにしたい、国籍、学歴、性別などに関係なく活躍できる会社にしたいと思って会社運営をしてきました。エチオピア人、フィリピン人、コンゴ人、中国人、韓国人、モルドバ人、ベトナム人など様々な国籍の人と未来を創造する仕事をすることは苦労も伴いますが、得るものが多々あります。

 

ベトナム料理店を作ってベトナム人留学生を支援したり、立ち上げた日本語学校でウクライナからの避難民を受け入れたりしているのも憲法の実践です。中国、台湾などからの外国人留学生を東大、早稲田大、上智大などの法科大学院に送り込んで、日本と母国の架け橋になってもらうべく支援をしています。民間交流でお互いを知り合うことが安全保障においても重要な鍵になると考えているからです。

 

私は憲法13条の個人の尊重、そして憲法9条を重視しています。思考は経験から生まれるとも言われているように、多分に自分自身の経験が影響しています。私も今月64歳になるものですから、少しだけ50年前の過去を振り返ることを許してください。

 

東京の下町で生まれたのですが、12歳の終わりから2年ほど当時の西ドイツで生活する機会がありました。東西冷戦のまっただ中でしたが、当時のドイツはトルコから移民を受け入れ始めたばかりのころだったため、市が運営していた外国人のためのドイツ語教室では私の他はトルコ人ばかりでした。彼ら彼女らの多くはいわゆる3Kの仕事に従事していたようです。

 

子どもたちの間でもアジア人はまだ珍しく、地元のオーケストラに入ったのですが、人種差別を受けたり、結構厳しい階級意識を感じたりもしました。とりわけ、最も記憶に残っているのは、東ベルリンに行ったときの街の雰囲気です。西ベルリンから東ベルリンに入ったらとたんに灰色になってしまったように感じたのです。デパートの中も素っ気ないし、色がない感じでした。「カラーフィルムを忘れたのね」という東ドイツのニナ・ハーゲンの1974年ヒット曲がありますが、まさに白黒の世界だったのです。昨年、東ドイツ出身のメルケル首相の退任式でこの曲が演奏されて話題になりました。

 

そして東西冷戦を象徴する高く堅牢なベルリンの壁、アウトバーンを走行する軍用車両の車列などを目の当たりにして、東西冷戦の厳しさ、戦争の恐怖を実感しながら、東西ドイツの生活や価値観の差、そしてこのベルリンの壁は自分が生きている間はなくならないだろうなと思ったものです。ただ、当時ヨーロッパを一人で旅行して様々な人に出会う中で、それぞれの国にはそれぞれの事情があっていろいろな人が生活しているのだな、いい人もいれば変な人もいるし、それぞれの人にはそれぞれの人生があるということを感じていました。

 

15歳になる頃一人で日本に帰ってきて知人の家で居候生活を始めるのですが、あえて南回り空路を使い途中で寄り道の一人旅をしてきました。アテネでホテルを探すことに苦労したり、カイロで出迎えの人と会えずに途方にくれたり、ピラミッドの中で迷ってしまいもうダメだという恐怖を味わったり、大変な旅でした。ですが、髭もじゃで強面のエジプト人にすごく親切にしてもらったりして、アラブ人やイスラム教の人もいろいろだなと思ったものです。結局、一人ひとりの個性の問題なのであり、外観、国籍、人種、宗教などで人を決めつけてはいけないなと実感したのもそのころです。

 

多感な時期に外から日本を見て日本人を強く意識するようになったものですから、かなりの愛国少年になりました。高校では弓道部に入り、武士道に傾倒していきます。新渡戸稲造が書いた「武士道」では、武士教育の最大の目的は品性を確立するところにあるとされています。武士にとって、卑劣な行動や不正な行為ほど忌むべきものはないともあります。その頃の私は大義のために戦うことは価値あることだと思っていました。

 

この「武士道」の中に、勝海舟についての記述があります。勝は「一度も自分の刀に血を塗ることはしなかった」といいます。海舟座談の「私が殺されなかったのは、無実の者を殺さなかった故かもしれんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。」という言葉を引用して、「真の勝利は乱暴な敵に抵抗しないことにあり、やはりことわざで『血を流さずに勝つのが最上の勝利である』と教えたのも、武士道の窮極の理想は、結局平和であったことを示している。」と書かれていたのです。

 

これを見たときには衝撃でした。確かに勝海舟は皇軍と戦わず無血開城して江戸を火の海にすることなく救いました。「真の勝利は乱暴な敵に抵抗しないこと」そんな勝ち方があるわけがないと思っていたのですが、ナチスに侵略されたフランスがパリの美しい街並みを守れたのも白旗を掲げたからだと気づきました。この時点ではまだ憲法9条を知らなかったので、自分は大義のために命を捨てる覚悟はできている。だから自分の国は自国の軍隊で守ることが筋であり、米国に守ってもらうなどという卑劣なことは許すべきではない。日本も正規の国防軍を持つべきだと考えていました。そして、自分は大義のために命を捨てることはできるからそのときは軍人になろうとも思っていたのです。

 

ところがここで問題が生じました。自分が死ぬことは怖くないが、人を殺すことができるか、民間人という無実の者を殺すことができるか、と自分に問うたときに、それはできない、そこまでの勇気がないと気づいてしまったのです。軍人になれば、罪もない民間人の犠牲も覚悟の上で戦わなければなりません。今日の戦争で民間人の被害を完全に防ぐことなどできません。そこで人を殺す勇気がない自分が軍人になるなんてとてもできないと思ったのです。

 

志願兵に任せればいいではないかとも思ったのですが、自分ができない汚れ仕事を人に押しつけている気がして、それは卑怯だと感じてしまったのです。自分ができない、人を殺すという仕事をいくら志願したとはいえ、軍人に押しつけることが卑劣だと感じてしまったのです。さあ、困りました。日本は自前の軍隊を持つべきである、しかし、自分は軍人になる勇気がなく、それを人に押しつける。これは卑怯である。そして自分が安全なところにいて、軍人に戦ってくれと願うこと自体が卑劣な態度に思えてしまったのです。さてどうすればいいんだ。高校生のころの私はこうして答えの出ない問題に悶々としていました。

 

陸奥宗光のような外交官になりたいと思って東大に入ったのですが、司法試験の勉強をする中で出会った憲法9条に衝撃を受けます。その手があったかという感じでした。そこで一気に「武士道」に書かれていた勝海舟のくだりがよみがえってきました。非暴力抵抗、戦わずして勝つ、そして非軍事中立を目指す意味、国民・市民を守る手段は何が適切なのか、被害を最小限にするにはどうしたらいいかを現実的に考えることが重要であることに気づいたのです。もちろん、こうした考えが正しいかどうかはわかりません。ですが、自分の中で決着がついたことは意味のあることでした。

 

司法試験の勉強での気付きはこうして私の長年の疑問に解決策を与えてくれました。このように法律を学ぶと様々な気づきを得られます。社会の問題、個人の問題、過去の問題、将来の課題、様々な問題を自分の頭で考えて、自分の価値観で意思決定して、その結果に対して責任をとる、そうした自立した市民としての生き方を考えることができます。何が正しいかわからない問題について、自分で答えを創り出して、その答えを事実と論理と言葉で説得する方法を学ぶことができます。世間の多数派とは違う視点でものを見て、複眼的にものを見る力を養うことができます。

 

法律を学ぶということは、このように自分の中にぶれない軸(マイ・プリンシプル)を創っていく過程として意味があると考えています。目の前の試験の結果はもちろん重要です。ですが、それ以上に勉強の過程で自らが法律的な知識のみならず、様々なことを考えながら人間として成長していくことが重要なのです。困難な挑戦であることは百も承知であえて本試験まで必死に頑張って努力を重ねてきた塾生の皆さんは、その努力の過程に大いなる自信を持ってください。

 

それぞれの試験に全力で向き合ってきてほしいと願っています。最後まで絶対に諦めなければ、何か解決策が見つかるはずです。全力で向き合うことによって何かが得られるはずです。それが皆さんにとってのマイ・プリンシプルになれば幸いです。最後まで絶対に諦めない受験生の皆さんを私も最後まで応援しています。

 




 

伊藤真塾長

伊藤 真

伊藤塾 塾長

司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。