第324回 力には力を

前回の雑感では、愛国少年だった私がなぜ憲法9条に目覚めたのかを書きました。自分自身の経験や新渡戸稲造の『武士道』や勝海舟に影響を受けて、憲法9条の非軍事中立が最も自分の価値観にぴったりくるし、小さな島国である日本で国民・市民の命と生活を守るためには最も現実的な方法だと考えるようになったのです。そして、その根底には、憲法の個人の尊重や平和主義を整合的に矛盾なく考えたいという思いも強くありました。
私は自分の中での理屈の説明がつかないことはどうも苦手のようです。個人の尊重と言っておきながら、死刑を認めたり、自衛権の行使として武力行使(戦争)を認めたりすることに納得がいかないと言った方がわかりやすいかもしれません。人の命を奪うのですから、やむにやまれぬ目的のためによほどの適合性、必要性が要求されると思うのですが、それが自分の中で納得できていないということです。
詳細なあてはめはここでは省略しますが、死刑制度は一般予防効果につながるとの証明は難しいですし、何よりも冤罪のリスクを上回る必要性があるか疑問です。憲法9条に関しても、自衛のための必要最小限度の武力行使は可能としつつ専守防衛に徹するという立場も十分理解できるのですが、状況に応じて核兵器の保有も可能としたり、先制攻撃ともとれるような敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有も可能とする議論にまで発展したりしてしまいます。そして何よりも、武力には武力を、力には力をという発想が根底にある以上は、個人の尊重が徹底できないと考えてしまうのです。
米国連邦最高裁は6月23日、銃を自宅外で持ち歩くことを制限するニューヨーク州法を違憲と判断しました。自己防衛のために公共の場で銃を所持する権利は合衆国憲法で保障されているという理由です。確かに米国憲法修正第2条は「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。」と規定しているのですが、この規定が、民兵及び州兵に属する一員としての集団的な権利としての保障なのか、自己防衛のための個人的な権利の保障なのかは、長らく議論されてきた問題です。まさに建国以来の銃には銃で対抗するという基本的な考え方を保守派が多数を占めている連邦最高裁で承認したわけです。
実は武器を携行、所有する権利自体は英国で市民が17世紀スチュアート王家との対立の中で獲得したものでした。つまり国家権力と対峙する市民の権利として位置づけられていたものだったのです。アメリカ植民地時代に当時のイギリス国王が植民地の武器を没収しようとしたときにも、市民から権利侵害だと猛反対を受けました。この時点では個人の尊重のための武器という立場も理解できます。自己防衛という名目は武器を所持し携帯するための最強の根拠になることがよくわかります。ですが元々は権力に立ち向かうための権利が、市民同士で殺し合いをする武器を携帯する権利になってしまったとは皮肉なものです。
トランプ前大統領は在任中、リベラルの象徴だったギンズバーグ判事の後任に保守派で名をはせたエイミー・バレットを指名しました。まさに面目躍如といったところでしょう。9人の米国連邦最高裁判事のうち6人が保守派で、トランプが指名した判事3名は40代、50代ですからまだまだ保守派のために活躍しそうです。頭を抱えているリベラル派の市民も多いことだと思います。
トランプ前大統領は、5月のテキサス州の小学校で起こった銃乱射事件を受けて、小学校の教師にも銃を持たせればいいと言っています。日本の私たちからすれば驚くような発想ですが、力には力で対抗するという根底の考え方としてはぶれていません。戦争も同様です。ならず者国家に対しては自国に被害が及ぶようなときには手加減するけれども、そうでない限り軍事力で徹底的に制圧するという姿勢を示します。個人の自己防衛のための武器の所持を憲法で保障し、市民の武器携帯の権利を奪ってはならないという国ですから、国家が戦力を保持しない、自衛戦争もしないなどという日本国憲法の発想はそもそも理解不能なのだと思います。
他方で、欧州の国々では、個人のレベルでは銃規制をしています。米国ほどには力には力をとは考えないのでしょうが、国家レベルではNATOなどの軍事力によって対抗する基本姿勢は変えていません。ただ、ドイツとフランスのように軍事的な対立は絶対に避けるという合意ができている関係もあります。
これらに比して、日本は、厳格な銃規制があり警察官ですら銃の使用には極めて抑制的です(警察官職務執行法7条)。そして国家としても、憲法9条で戦力不保持と交戦権の否認を規定します。自衛官の武器使用も極めて厳格に規制されていて、諸外国と比較すると国家としての武力行使すら原則否定してきたこの国のあり方はかなり特殊なものです。ここに、力には力で対抗することをよいこととしない姿勢が見て取れます。
この憲法9条を米国からの押し付けだという人が未だいますが、様々な歴史的研究の成果として、この規定は当時の総理大臣であり、元外交官だった幣原喜重郎の提案によるものであったことが明らかになっています。そして何よりもこうした平和主義の思想そのものは日本に深く根付いていたものといえます。
現在では聖徳太子によるものか疑問が投げかけられていますが、604年の一七条憲法の1条には、「以和為貴」(和をもって貴しとなし)という有名なフレーズに続けて、「無忤為宗」(いさかいを起こさぬことを根本としなさい)と規定して、争うことをいさめています。そして、「上の者も下の者も、協調と親睦の気持ちをもって論議するなら、自ずから物事の道理にかない、どんなことも成就するものだ」という内容が続きます。10条において「人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。」として、個人の尊重が規定されていますし、17条においては「物事は一人で判断してはいけない。必ず皆で論議して判断しなさい。皆で検討すれば道理にかなう結論がえられよう」という議論の重要性を指摘しています。
このように、604年の時点でこの国は、お互いの違いを認め合って、紛争は議論して解決し、人々の声を聞いて政治を進めるべきだと言っているのです。世界で最初の立憲主義憲法と言われる英国のマグナカルタの600年以上も前の話です。
私は民族性とか国民性という発想があまり好きではありませんが、この日本の法規範の原点でもある一七条憲法は、仏教の影響だけでは説明できない人類の普遍的な価値を含んでいて、それが日本という国の基盤になっていると思うのです。憲法9条の徹底した平和主義は国際社会においてかなり特殊なものといえますが、日本においては憲法施行とともに75年前に突然始まったものではないということです。
最近は、憲法9条を邪魔者扱いし、米国と軍事一体化を進め、諸外国と同じように軍事力によって国を守る当たり前の国になろうとしているようです。力には力をという基本スタンスに変えるのですから、それは「国のかたち」を変えることになり、本来なら憲法改正が必要なはずです。国民的な議論をしてきちんと力で対抗する国に向かっていくのだとはっきりと方向転換をするべきだと思います。
世の中には話し合いなどが通用しない人達もいますし、力には力でという理屈も一定の説得力はあります。評判だった映画、『トップガン』のように敵の核施設を叩きつぶすことは正義であり、先制攻撃も辞さない態度は英雄視されるのでしょう。ただ、暴力を含めた「力がものを言う社会」になっていく覚悟は必要かと思います。
果たしてこうした国柄に変わることは長い歴史の中で築き上げてきた日本の国情にあっているのでしょうか。無理して「名誉白人」になろうとしている痛い姿に見えてしまいます。そもそも日本の若者は戦地で人を殺し殺されることを現実のこととして受け入れることができるのでしょうか。自ら進んでそのような過酷な世界に身を置きたいと考える若者だけで自衛隊、国防軍は維持できるのでしょうか。少子化の時代ですし、国民主権国家であれば、誰もが銃を手に取って戦うべきだという観点から徴兵制も必ずしも理不尽ではなくなりそうです。
なかなか出口が見えないウクライナ戦争についても様々な議論があります。ウクライナの人々が逃げるのがいいのか、戦うのがいいのかについては、私はそもそも当事者ではないので何かいえる立場ではありません。ただ、白旗を上げるかどうか、逃げるかどうかは、国ではなく個人が決めるべきことだというのが私の考えの基礎にあります。ここでも個人の尊重を徹底する自分がいるのです。
少なくとも日本において、個人に対して国が「逃げるな、戦え」と強制することは、市民に逃げることを禁じた忌まわしい防空法があった戦時中と同じであり、それは許されません。国のために戦いたい人は戦えばいいし、武器での抵抗が性に合わないけれども抵抗したいというのであれば、非暴力抵抗をすればいいし、単に逃げたい人は逃げればいい。
逃げることができずに戦うことが自分や家族の命を守ることにつながると考えるのであれば、戦えばいい。戦わずして白旗を上げることのリスクを承知の上で、そうしたいのであればそうすればいい。それぞれが自分で判断すべきことだと考えます。少なくとも多数意見に従う必要は無いし、ましてや国に従う必要も無い。すべて個人の人格的生存にかかわる自己決定権の問題ですから、憲法は個人の自由にまかせています(憲法13条)。
日本は大日本帝国憲法の価値観からポツダム宣言を受諾して日本国憲法を制定したことによって、大きな価値の転換を図りました。主権者が天皇から国民に変わり、台湾出兵から71年間も戦争し続けた国から、戦争しない国に変わったのみならず、何よりも国家を第一に考える国(国家主義)から一人ひとりの個人を尊重する国(個人主義)に大きく転換したのです。国家のために臣民が犠牲になることも当然とされた価値観から脱却し、一人ひとりの個人の幸せのために国が存在するという大きな転換です。
侵略された場合のように国の一大事において、そのように一人ひとりの行動がバラバラでは、国家が成り立たなくなる、一致団結するべきだと考える人もいるかもしれませんが、そもそも国家は個人を尊重して、一人ひとりの生命、自由を守るためにあるのですから、その国家があてにならなくなった以上は、国家のために個人が犠牲になることはありません。これが抵抗権の保障です。
こうした戦時における民間人である個人の選択の自由を国が奪うことは、少なくとも現在の憲法は許容していないことを確認しておきます。そして、命の位置づけという人格的生存に不可欠の事項については個人の自己決定に任せ、国が介入しないとしたのが憲法13条の自己決定権の保障の根幹なのです。
私も若いころには、前回述べたように戦って国に命を捧げることが尊いと考えていた時期もありました。今でも日本の豊かな自然、歴史、文化は大切にしたいと思います。ですが、自分の命をかけても守りたいとは思いません。結局、命よりも大切なものがあると考えるのか、命あっての物種と考えるのかの違いであり、それはまさに個人の価値観の問題です。相手の立場を理解すれば十分なのであって、それ以上の論争は不毛です。
命の処理はもっとも個人的な私的な領域の問題であり、これを公の問題と切り分けて、私的領域を確保することが近代立憲主義の重要な目的です。この領域を国家に支配させたくないと考えることは立憲主義を重視する自分には自然なことなのです。
法律の勉強をする中で憲法13条や9条を知り、権力の本質に気づき、ここ数十年の日本の為政者の言動や日本国民の対応を見ていて、とても自分の命を捧げるのにふさわしい国とは思えなくなりました。そもそも国家は個人の自由や幸せ実現のための手段であるのに、そのような働きをしないのですから、希望よりも失望の方が大きくなってしまったのは止むを得ません。政治家の本来の仕事は、国民に愛国心を強制するのではなく、自然に大切にしたいと思うような社会、国を創っていくことだと考えます。
誰もが人と違っていいのですから、日本という国も他国と違っていいはずです。100年後を見据えて、日本らしい個性的な国柄を大切にしようと主張する政治家がリーダーシップを発揮してくれるといいのですが、「寄らば大樹の陰」、「強いものに巻かれろ」、「大国の真似をして追いかけろ」という明治維新以来の発想から抜け出せないのは残念です。ただ、それでも理想を追い求める気持ちは大切にしたいので、絶望することなく前を見るようにしています。少なくとも個人的にはこれからも「力には力を」という考えに対して、ドンキホーテのように挑戦し抗い続けたいと思っています。

伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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